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センパイに書道を教えてもらう約束を結んでからは精神的にラクになった。
あの人が部室に来ないことを思い悩んだりしなくていいし、活動をちゃんとやってたら時間なんてあっという間だし。
由井相手だとどうしても友達に対する甘えみたいなものがあったから、センパイもあれで上級生だと思うと気構えが違う。

決意新たに本格的に部活に取り組んでるうちに六月に入った。
この日の放課後は委員会があって部室に行くのが遅れた。
委員会は、立候補以外は部活やってないヤツに優先的に振り分けられるわけだけど、一年のとき何もやらなかったせいで、四月の委員決めのときに押し付けられた美化委員。その一斉清掃日だった。

衣替えでブレザーなしになったのはいいけど、今日は風がなくて外の日差しが強い。これもうほぼ夏だろって暑さ。
ダラダラと校舎周りのゴミ拾いをしてたら、たまたま通りかかった自分のクラスの担任に声を掛けられた。
白髪まじりの猿顔のオッサンで、担当教科は国語。顎ヒゲまでゴマ塩っぽい色をしてる。

「おっ、寒河江発見。委員会中?」
「そーっす」
「早く帰りたいって顔してるねぇ」
「みんな思ってんでしょ」

めんどくせーって考えが顔に出てるのはオレだけじゃない。美化活動なんて全員手抜きしながらテキトーにやってる。オレはむしろ早く部活に行きたいってほうだけど。
センパイ、もう来てるよな?
一応由井に「委員会があるから遅れます」って伝言は頼んどいた。センパイは学校ではメール見ないらしいから伝言のが確実だ。
人に踏み潰されて土の靴跡がついたコンビニのビニール袋が目に入ってさらにテンションが下がる。踏む前に拾っとけ、つーか捨てたの誰だよ。
嫌々それをつまんで拾い上げてたら、担任が思い出したように短く声を上げた。

「そうだ、おととい出してもらった宿題のアレ、作文なんだけど」
「なんすか?」
「字が少し読みやすくなっててびっくりした。どうしたんだ?なんかあった?」

いいことのはずなのに「体調悪い?悩みでもある?」って言い方をされた。いやそこは褒めろよ。
国語教師として字が汚い生徒は目に付くみたいで、オレは担任に真っ先に名前を覚えられた。
しょっちゅう「読めない。これどうにかならない?」って注意されても今まで別に気にもしてなかったけど。

「解読班がねぇ、残念がってたよ」
「何でなんすか。喜ぶとこでしょ、それ」

蒸し暑いせいで話をするのも億劫なオレがぞんざいな返事をすると、何がおかしいのか担任は甲高い変な笑い声を上げた。
どうもオレの字が汚くてあんまりにも読めないせいで、先生の間で暗号解読隊が組まれてるらしい。生徒の字で遊んでんなよ。
ここのところ、筆の持ち方を直したいからシャーペンもできるだけ正しい持ち方を心がけて、練習のつもりで普段でも気を遣った。
代わりに字を書くことに倍以上時間がかかるようになってイラついたけど、そういうときはセンパイの顔を思い出して気持ちを静めてた。
その成果がこんな形で出てきたんだって知って、オレのほうもちょっと驚いた。

「まぁね、何もないならいいんだよ」
「……最近、書道部に入ったんで。それで」
「ああ、楠くんのところ。なるほどねぇ。楠くん、いい字を書くもんね」

学年が違っても教師だとセンパイの字を見る機会があるんだな……とかそれなりの理由付けを考えてたら、職員室で書道部顧問の隣の席だからとかなんとか聞いてもないのに担任が勝手に喋った。
明るい人だけど、そのぶん世話焼きお喋り好きなのがウザい。
それから担任は一人で頷きながら「頑張って続けて」と言って去っていった。その言葉が指すのは書道部のことか美化清掃のことか、どっちだろう。
立ち止まったせいで暑さに体力を奪われた。その場でしゃがんで休んでたら、指定された範囲の大部分を残して終了時間になった。

片づけをさっさと終わらせて部室に急ぐ。ところが、ドアに隔たれた部室の中は物音ひとつ聞こえずにしんとしてた。もしかして誰もいない?
不審に思いつつドアを開いてみたら、全員勢ぞろいだった。みんな静かに活動してただけだ。特にセンパイが。
センパイは、筆の先を墨汁に浸してるところだった。

「……ちわっす」

小さく声をかけても誰も反応しない。
――美容院に行った次の日、センパイは約束どおりオレの貸したバッグを持って部室に現れた。
でも、それからオレの指導にかかりっきりで自分が書道をすることはなかった。
教えてほしいとは頼んだけどセンパイの活動を邪魔したいわけじゃなかったから、そっちも自分のことやってくださいって何度も言った。
そのたびセンパイは困ったように笑って「家で書いてるから」と首を振った。

つまりようやく、センパイが書道をしてる姿をちゃんと見る機会が巡ってきたってことだ。
センパイは集中してるみたいでオレのほうを向かなかった。今は、向いてほしいとも思わなかった。
そっと近づくと他とは違う墨の匂いがした。
墨汁に匂いの違いがあるなんて知らなかったし気にしたこともなかったのに、センパイが磨った墨の香りは何かが違うとはっきり感じた。
いつも自分が使ってるボトル入りの墨汁はさらっとして無機質な感じがするのに対して、センパイの墨の匂いは生っぽいような――なんて言ったらいいかわからないけど、深みがある気がする。

由井も手を止めてセンパイのことをじっと見つめてる。
艶のある黒々とした墨に濡れた筆先が、紙の上に滑る。そのとき、心臓の音が大きく高鳴った。
手元から少しもそらされないまなざしに半端ない集中力を感じる。動きのひとつひとつがなめらかで、それでいて静かだ。

濃厚な墨の匂いが鼻の奥まで満たす。
息苦しい蒸し暑さのせいで頭の中がぐらぐらしてる。眩暈もする。汗でじっとりと濡れて、シャツが背中に張りついている。
窓から差し込む陽の光が逆光になっていて、特別な空間にいるように思えた。
おまけにセンパイからただならない気迫みたいなものが見える気がするのは、あのパフォーマンスを見たせい?

ぼんやりしてる間にセンパイは一枚書き終わっていた。
終わった書は丁寧に隣に避けて次の紙を準備してたから、我に返ったオレは慌ててポケットからスマホを取り出した。

「センパイ」
「……ん?」
「ちょっと、写真撮らせてもらっていいですか?あー……参考に?」

咄嗟に出たよくわからない理由にも関わらずセンパイはこっちをチラリとも見ないで頷いた。雑音が煩わしいって言いたそうな緩慢な返答。
気のない素振りでもオレにとっては好都合。この姿を自分の今の気持ちごと留めておきたかった。
再び墨を浸した筆を紙に持っていった瞬間に合わせて撮影ボタンを押した。

スマホの中のセンパイは、なんの変哲もない普通の部活風景になっていてガッカリした。
オレのカメラの腕が悪いのかもしれないけど、それ以上に、リアルで直面しないとこの独特の空気は感じられないんだろう。
息が止まるくらい、この、張り詰めた清らかな空気は。


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