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別れの予感に膝が震える。でも泣くことだけはしたくなかった。
掴んだままの寒河江くんの腕が少し動いた。ここまできたらもう縋る気持ちもなく、手を離す。
解放したら部室から出て行ってしまうかと思ったけれど、寒河江くんはその場に留まっている。喉仏が上下に揺れたあと、彼の口が開いた。

「ちょっと、話……してもいいですか」
「うん」

なんでもいいから聞かせてほしい。彼氏以前に俺は寒河江くんの先輩なんだ、受け止めてみせる。
しかし、掠れた声で話しだした寒河江くんの言葉は予想していたものとは違った。

「……オレ、部活って、マジで嫌いだったんです」
「え?」

恋愛とはかすりもしないような話に首を傾げた。そんな俺の戸惑いが伝わったのか、言葉を探すように寒河江くんの目が泳いだ。

「あー……あの、オレの中学んときの話、覚えてますか」
「うん。覚えてるよ」
「あのとき……陸上部追い出されてから、二度と部活入らないって決めてたんですよ」

寒河江くんは言った。はっきり、「追い出された」と。
前にその話をしてくれたときは自分から休部したみたいな言い方をしていた。ところが真実はちょっと違うらしい。本当は、陸上部でかなり嫌な目にあったのかもしれない。

友達なら気の合う仲間で固まればいい。クラスメイトなら学校側で決められた団体だと割り切れることもできる。
部活はそのどれとも違う。クラスや学年を跨いで様々な目的で集まって、仲間意識はあっても必ずしも全員仲がいいとは限らない。熱意もペースも、楽しさも苦しさも人それぞれ。
寒河江くんは中学時代の記憶から部活動を相当嫌っていたようだ。

「書道部もさ、どうせたいしたとこじゃないだろって最初っからから見下してたし、やる気なんて全然なかったんですよ」
「あーうん、そんな気はしてたけど……」
「でも、違ったんです。書道部って思ってたのと違うし、なんかミョーに居心地よくて……部室行くのが楽しみになってたんですよ、ホント」

由井くんがいるから足繁く通っているのかと思っていたけれど、寒河江くんは自主的に楽しんでいたんだ。
それを聞いたら部長として温かい気持ちに満たされた。

「みんな好き勝手してんのにちゃんとまとまってて、ていうかあの由井があんなにしおらしくしてることがもう事件っつーか」
「そ、そうなんだ」
「そんでそのうちに、そういう居心地のいい空気を作ってるのが……センパイなんだなって気づいたんですよ」
「俺?」

アットホームで親しみやすい書道部にしようという方針は代々の伝統だ。俺はそれに則っていたにすぎない。
けれどそれだけじゃないと寒河江くんが首を振る。

「センパイはさ、優しい人が好きだって言うけど、優しいのはセンパイのほうなんです。そんなだから愁たちだって部員でもねーのにぬくぬく居座ってたんだし」
「そう……なのかな」
「そうなんです。……センパイと一緒にいるうちに、オレ、自分がどんだけちっちゃいヤツだったんだろって思い知らされました。そんで、だんだんセンパイにだけは嫌われたくないって思うようになって――」
「…………」
「つかもう初日からやらかしてたし、部活来なくなるくらいセンパイのこと怒らせたしで、そのぶん必死で好かれようとしました」

必死だとか好かれようとか、そんな風には見えなかったけど。
寒河江くんは自然体なのが魅力で、マイペースに見えてもちゃんと他人のことを思いやれる。そんな彼だから俺も惹かれたんだと思っていたのに。

「……字もさ、テキトーに書けて読めてたらいいって思ってたから直す気なんてなかったんですよ。けどやっぱ、ちゃんと書けたら気持ちいいんですよね。自分も、読む相手も」
「うん……そうだね」
「先生に『お前どうした?』って超聞かれましたよ。テストとかでオレの字が読めなすぎてマジやばかったらしいです」

思い出し笑いみたいに寒河江くんの口元が綻ぶ。
一方で俺は少しも笑えなかった。微笑ましいエピソードを聞いているはずなのに、何故か切ない響きがしたから。
不意に寒河江くんが俺を真正面から見据えてきた。その真摯さに気圧され、どきりとする。

「センパイは、なんていうか、オレにとって恩人?みたいな」
「うん?」
「オレに居場所をくれた人、っていうか……」

大げさな言い方だと思ったけど、彼もそれ以外の表現が見つからないようだった。
部活なんてくだらない、仲間の結束なんて簡単に崩れる、そういった意識を俺が覆したのだと、寒河江くんが言う。
寒河江くんが抱えているものは、俺の想像よりはるかに複雑なんだろう。

「センパイのさ、書道やってるときの真剣さとか見ててかっこいいって思うし、張り切るくせに空回っちゃうとこも可愛いと思うし」

ストレートに褒められて目頭が熱くなった。さりげなく貶すところも寒河江くんらしい。

「……そんなセンパイには喜んでほしいし、出来ることなら何でもしてあげたいって、思ってます」
「何でもって……」
「ずっと、彼女作りたくてそのために頑張ってたのも分かってます。理想の子が見つかって、向こうにも好かれてて……だったら、オレはいないほうがいいって思って」
「それで自然消滅?」

寒河江くんがためらいがちに頷く。
そっと彼の腕を撫でたら、どこかぼんやりとしていた表情がみるみる歪んだ。

「……センパイと別れ話なんて、したくなかったんです」
「寒河江くん……」
「本当は、死ぬほどイヤです」

俯いた寒河江くんの瞳から、ぽたりと雫が落ちた。唇がかすかに震えている。

「ゆ……譲りたく、ないです」
「…………」
「センパイの恋人は、他の誰かじゃなくて、オレでいてほしい……」

絵に描いたような理想の女の子より、オレを選んでください。――寒河江くんの声でそう聞こえた気がした。

頭の中で何かがパチンと弾けた。
そうだよ、寒河江くんが最初の心得として教えてくれたじゃないか。
恋人がほしかったら、自分からアプローチをするんだと。
だったら俺がいま言うことは決まってる。ひと呼吸置いて、すう、と息を吸い込んだ。

「――好きだよ、寒河江くん。改めて、俺と付き合ってください」

そう言った瞬間、寒河江くんは俺を強く抱きしめてきた。
小さい嗚咽が俺の肩に吸い込まれる。彼の震える指がシャツに食い込んだ。
わずかな隙間をなくすために、寒河江くんをぎゅうっと抱き返した。

「……オレも、センパイが、好きです」
「うん、知ってる」

何日かぶりに心から笑えたような気がした。


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