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「あ、部長〜」
「ちわっすー」

小磯くんが鍵を開けてくれたようで、部室にはすでに数人来ている。
ふとうしろを振り返ってみると寒河江くんが俺のあとについてきていた。
俺はみんなに挨拶をすることすら忘れて、カバンを置いたらすぐに書道具を用意した。普段は机の上で書くのだが、パフォーマンスの練習だとかがあるので机は端に寄せられている。
床に新聞紙を引き、下敷きの上に半切紙を置く。俺が紙を軽く伸ばしながら文鎮で押さえている間に、寒河江くんもカバンをおろした。

「寒河江くん」

そう呼ぶと、何故か他の子たちが背筋を伸ばした。紙の傍らに座って寒河江くんを見据えた。
彼も観念したように紙の前で膝をつく。しかし墨汁にも筆にも手は伸ばさない。ただじっと真っ白な紙を見下ろしている。
そのうちに部員が次々と集まってきた。寒河江くんがいるのを見ると「おっ、エーちゃん?」と喜ぶけれど、俺と寒河江くんの雰囲気を察してか直接話しかけることはしなかった。誰ひとりとして。

そのまま時間だけが過ぎた。
今日は来る子も少なく、余計に部室は静かだった。
いや、静かに感じていたのは、俺が他を気にしていなかったせいかもしれない。

ずっと、寒河江くんだけを見つめていた。
不思議なもので、避けられていた悲しさも、空しさも、怒りも、愛おしさも何も感じなかった。
書道は俺にとってそういうものだ。筆で字を書くとき、別のところから自分を見下ろしているような感覚がある。
白の世界に向き合うそのとき、感情がどこかに置き去りになってしまうのだ。

「……部長」

控えめな声がして顔を上げた。小磯くんだ。

「あの、もう時間が、ですね……」

壁の時計を見たら、いつの間にか部活が終わる時間になっていた。帰り支度を済ませた部員たちが遠巻きに俺と寒河江くんを見ている。

「部室は俺が閉めるから、帰っていいよ」
「はあ……」

気の抜けたような別れの言葉をそれぞれに発しながらみんなが部室から出て行った。
ドアが閉まるのを見届けたあと寒河江くんに視線を戻すと、彼は俺のほうを見ていた。そのまま数秒見つめ合う。
寒河江くんは無表情で何を考えているのかは読めない。けれど、この空気には覚えがある。
合宿の夜に、高台の公園で彼の中学時代の告白を聞いたときと似ている。体の芯が冷えてもやもやとしたものが残る。

こうしていても埒が明かないので声をかけようとしたが、その前にようやく寒河江くんが動いた。
墨汁を皿に出し、筆をとる。穂先に液を浸して、真白い紙に黒を滲ませた。
寒河江くんの腕が動く。筆の持ち方がきちんとしている。その姿はとても綺麗に見えた。
ひと筆ごと丁寧に、彼が線を引いてゆく。その間、俺は何度か息を止めた。自分の呼吸すらうるさく感じたからだ。

――健全な精神

出来上がった書は、巧拙よりも、何か崇高なものが込められているような気がした。
寒河江くんが筆を置いた瞬間、風船が急激に萎むような感覚に見舞われた。脱力していたら彼が立ち上がりカバンを掴んだので、慌ててそれを引き止めた。

「さ、寒河江くん……ッ!」

寒河江くんのカバンを咄嗟に掴んだ指先が、氷に触れたみたいに体温を失う。背筋が冷えた。

「ま、待ってよ、俺、まだ」
「……何すか。もういいでしょ」
「よくないよ!」

ひとたび書から離れてしまえば、たくさんの感情が奔流のごとくドッと俺を襲った。ごちゃまぜに濁ったそれに喉が詰まって唇が震えてしまう。

「なんで、さ、寒河江くん、部活来なかったんだよ」
「……センパイ、前にバイトと遊び優先でいいって言いましたよね?」
「言ったよ、だけど……ちょっと前まで頑張って文化祭の準備してたじゃん。それなのに、急に……朝も、バス乗ってこないし……っ」
「…………」
「どうして俺を避けるんだよ!!」

縋るように叫んでいた。心からの叫びだった。
寒河江くんがドアの取っ手を掴もうとしたから、俺はそれを阻もうと彼の手を掴んだ。思っていた以上に熱い手だ。いや、そう感じるのは俺の掌が冷えているせいかもしれない。
もう必死だ。みっともなくてもなんでも、ここで離したらこの先、彼と二度と会えないような気がして怖かった。

「俺、寒河江くんに何かした?なんか怒らせた?」
「……怒ってるように見えますか」

見えなかった。ずっとそれが疑問だった。
怒ってるならそれなりに謝ったり宥めたりと対処のしようがある。でも寒河江くんは不気味なほど静かで、冷静だった。

「じゃあなんで?いきなりそんな、さ、冷めたみたいな態度されたって、わけわかんねーよ!」
「…………」
「り、理由あるなら教えてよ!ちゃんと話そうよ!俺たち付き合ってんじゃん!」

この距離がもどかしくて掴んだ手を引っ張ったら、彼のカバンがドサッと床に落ちた。しかし寒河江くんはそれを拾わずに、ゆっくりと俺に体を向けてきた。

「もうさ……そういうの、やめましょうか」
「……え?」

そう言われた途端、部室に差し込んでいた日が翳り、薄暗くなっていることにはじめて気づいた。
秋の日はつるべ落とし、そこに夕暮れの色すらない。

「やめるって……え?」
「なんつーか、練習みたいな?そんな感じでしたし」
「え……え?ごめ、何?何が?」
「付き合うとか、そういうのが」

口の中がからからに乾き、舌が張りついている。早まる呼吸を抑えようとしてもうまくいかなくて何度も唾を飲み込んだ。

「こういう空気とか超嫌いなんで、ホントは自然消滅的な感じにしたかったんですけどね。つか、まさかそっちから来ると思わなかったし……」
「さ、寒河江く……」
「まあ、男となんてノーカンですから」

ノーカンという言葉に頭をガツンと殴られた気がした。
なかったことにしろって言ってるんだろうか。
初めてしたキスも、楽しかったデートも、緊張したエッチのことも。寒河江くんのことを好きな気持ちも――。


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