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朝の一件のせいで今日は全く授業に集中できなかった。古屋に言おうかと一瞬思ったけれど、言葉にした途端あいつの胸板で咽び泣きしそうだったからやめた。
そんな風に一日を過ごしていたら放課後はすぐにやってきた。この時間になったらさすがにだいぶ落ち着いた。
早く字を書いていつもの調子を取り戻したい。そう思っていそいそと部室に行くと、ドアに寄りかかる寒河江くんの姿があった。

「おっ、寒河江くん?偉いぞ一番乗り!」
「センパイに会いたかったんで」
「そ、そっか!」

相変わらずさりげなくかつ嫌味のない彼氏アピールである。そして俺がいちいち照れるのも相変わらずだ。
鍵を開けて無人の部室に入ると寒河江くんは間髪入れずに俺の手を握ってきた。
部員が増えたおかげですぐに人が集まるから二人きりの時間は短い。そんなわけで、他の子が来る前に軽いチューを一発。

「朝、すいませんでした。遅れちゃって」
「別にいいよ。……あのさ、実はその朝のバスでちょっとハプニングがあったんだけど」
「なんです?」

朝に起こったバスでの顛末を話して聞かせると、寒河江くんは表情を固くして黙ってしまった。
由井くんのガチな付きまとい案件を間近で色々と見ている寒河江くんなので、何か気付いたことがあるのかもしれない。

「なんかまずかったかな……」
「……あーいえ、むしろ良かったと思いますけどね。見てないんではっきり判断できませんけど、たぶん、センパイが考えてたので合ってるんじゃないですか?」
「ち、痴漢?」
「っすね。でもまあ、センパイらしいやり方でいいと思いますよ。てか男の顔見たんですよね?」
「うん。駄目だった?」
「や、そいつがマジでヘンなことしてたんなら『顔覚えられた』って向こうは思うでしょ。あとはその女子がバスの時間変えるなりすれば解決ですって」

寒河江くんから太鼓判をもらったことで安堵した。
気が緩んだらなんだか涙腺まで緩くなってきた。俺のメンタルの弱さはどうしようもない。

「うぅ……ほんと言うとめっちゃ怖かった……」
「センパイ頑張ったじゃないですか」

笑いながら寒河江くんが俺の背中をトントン叩く。そうして彼は俺を優しく抱きしめてくれた。
彼氏の存在ってありがたいなぁ。こういうのって、この年じゃ親にしてもらうのは恥ずかしいし友達にされたら違和感があるし。なので遠慮なく寒河江くんの背中に手を回してギュッと抱き返した。
スキンシップは荒れた心を鎮めてくれる癒し効果があるらしい。

「つか、マジですいませんでした。次からは遅れないんで」
「お、お願いします……」

語尾が寒河江くんの唇に吸い取られる。そのまま何度も啄ばんでくるから、俺もそれに応えた。
そろそろ人が来るんじゃないかとドアの向こうが気になって仕方ないのに、温かくて柔らかい唇に思考が鈍っていく。
寒河江くんとのキスは何度してもドキドキする。慣れないわけじゃなくてその逆で、この夏に寒河江くんと経験したアレコレを思い出すからだ。
キスをしながら寒河江くんが俺のうなじをくすぐるように撫でた。
く、首はやめてください!ビクッとしちゃうじゃないか!
スキンシップもやりすぎると今度は股間のステータス異常に――いや、反応としては正常だけど、とにかく暴れん坊になるのでほどほどに!



そして翌週の月曜日。寒河江くんは寝坊せず、しっかり約束のバスに乗ってきた。

「寒河江くんおはよ!」
「おはようございます」

寒河江くんが人の間を縫って俺の隣に立ったので見上げながら声をかけた。
朝から彼氏の顔を見られるっていいよね。思わずニヤニヤと口元が緩んでしまった俺に対し、寒河江くんは真剣な目つきで軽く周囲を見回した。

「……いました?この前の話の人」
「ううん、どっちもいないよ」

寒河江くんが言っているのは痴漢の話だ。
俺もそれを気にしてバスに乗ってからつぶさに確認したのだ。でも、女子も青Tシャツ男も、それらしい人は車内にいなかった。二人ともバスを変えたのかもしれない。そのほうが安全だ、俺的に。
それから俺たちは、それぞれ土日に何をしたか世間話をしながら何事もなく普通に登校した。
昇降口で寒河江くんと一旦別れる。
上履きに履き替えてスニーカーを取るために屈んだそのとき、内股気味の白い足が二本、目の前ににょきっと現れた。
驚いて顔を上げたら、そこには知らない女子が立っていた。

「あっ……あ、あのっ」
「は、はいっ?」

女子が声をかけてきたからつられて返事をした。えっと、俺だよね?この子、俺に話しかけたんだよね?
俺よりかなり背の低い子だ。少なくとも同じクラスの子ではない。カバンは持っていなくて、かわりに両手をうしろに回してもじもじしている。

「わわ、わたし、えっと……あの……っ」
「センパイ?どうかしました?」

俺がまだ靴を履き替えてないと思ったのか、寒河江くんが三年の下駄箱スペースに姿を見せた。
小柄な女子は寒河江くんの顔を見るなり顔中真っ赤にしてピョンと踵を跳ね上げさせた。そしてうしろ手に持っていたらしい小さな紙袋を俺に強引に押し付けたあと、走って逃げていってしまった。お、おーい廊下は走ると危ないぞー!
わけが分からずに俺も寒河江くんもしばらく呆然と小柄女子が去っていった方向を見つめた。手の中でかさりと紙袋が音を立てる。

「……今の誰です?」
「えっ?わ、わかんない。誰だろ」
「クラスの子とかじゃないんですか」
「ううん、違うよ」

唯一の手がかりである紙袋を見ると、ピンクうさぎのキュートなシールがぺたりと貼られていた。
首をかしげながらそれを見つめていたら、寒河江くんのほうが何か思い出したように「あっ」と声を上げた。

「もしかしてアレじゃないですか?ほらあの、バスの話の。うちの制服着てたって言ってましたよね」
「あーそっか、あのおだんご女子!なるほど!でも俺、あのとき女子の顔見なかったからわかんないんだけど……」

顔も知らないし髪形も今日はおだんごじゃなかったからピンと来なかったけれど、たしかに背格好を思い返してみるとそんな気がする。

「だからそれ、助けてくれたお礼ってことなんじゃないすか」
「そ、そうなのかな?」
「開けてみたらわかるでしょ」

不安と期待でドキドキしながら紙袋のシールを剥がして中身を見てみた。
中に入っていたものは二つ。透明な小袋に詰められたチェック模様のクッキーと、小さなメッセージカード。
カードには少し丸い丁寧な字で、『1−2春原なるみ』――すのはらなるみ、と、そう書いてあった。


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