26


寒河江くんは道具だけ用意して筆は置いたままだ。俺が墨を磨り終えるのを待ってるらしい。

「寒河江くん、文化祭の展示どうする?何か書きたいこととかやりたいことある?」
「や、そのへんまだ全然考えてなくて……」
「あんま難しく考えなくていいからね。思いつかなかったら課題用の字もあるからさ。寒河江くんすごい上達したし、あとは全体のバランスだよね」

初心者がやってしまいがちな、書き始めの字は大きく、あとになるほど紙に納まらなくなってアンバランスに萎んでしまうという現象だ。
寒河江くんとは今、それを重点的に練習している。

「センパイは何書くの?」
「そーだなぁ、とりあえず掛け軸でも作ろうかなって思ってるんだけど」
「マジっすか。あんなん自分で作れるもんなんですか?」
「方法は色々だけどできるよ。俺は小学生のときに夏休みの自由工作でやったことがあってさ、じいちゃんが表装のやり方知ってたから教わって……」
「じいちゃん?」

突然別の声が混じった。
俺と寒河江くんの会話に割り込んできたのは由井くんだ。墨に浸す前の筆を止めて俺たちを振り向いている。
あれ、そういえば由井くんと初めて目が合ったような気がする。くりっとした目が相変わらずキュート。今日は由井くんと見つめ合えた記念日にしよう!
心の中でひそかに感動していたら、由井くんは筆を持ったまま俺らの前に来て正座をした。

「部長、お祖父さんがいるんですか?」
「あ、じいちゃんっつっても血が繋がってるわけじゃなくてご近所さんね。俺、書道は子供の頃からそのじいちゃんに教えてもらってるんだよ」
「前に書道習ってないって言ってましたよね……?」
「うん、教室には行ったことないよ」

由井くんの筆を持った手が微かに震えはじめた。えっ、なになにちょっと大丈夫?
以前、由井くんに教室に行っているかと聞かれてノーと答え、それきり何も聞かれなかったからじいちゃんのことも話してなかったんだけどまずかったかな。

「ゆ、由井くん……?」
「そ……そのおじいさんの、な……名前、とか、聞いてもいいですか……?」
「名前?じいちゃんの?えーっと、こう、鈴に鹿って書いて、すずかって読む――」
「鈴鹿螢山!!」

自分の半紙に『鈴』と書きかけたら由井くんが急に大声を張り上げた。その声に驚いたのか、ざわついていた部屋が水を打ったように静まり返った。
由井くんの異様な雰囲気に圧倒されて、俺の口がポカンと半開きになった。

「け、けいざん……?じいちゃんの名前はそんなんじゃなかったような……」
「螢山は雅号。本名は蛍次郎。鈴鹿螢山先生は、大胆な書風ながら多くの賞を取って国外でも活躍してた書道家ですよ!」

由井くんはさらさらと流れるような字で『螢山』『蛍次郎』と書いた。
こらこら、それは寒河江くんの半紙と墨汁だぞ由井くん!

「たしかに蛍次郎はじいちゃんの名前だけど……。だって、いつも家でゴロゴロしてるよ?気ままな年金暮らしって言ってたし……」
「現役の活動期間はそう長くないんです。お体を悪くしたとかで後進に譲り早期に第一線を退いたんですよ。螢山先生の若い頃の書は、おれの師匠もかなり惚れ込んでました」

由井くんが頬を赤く染めながらぺらぺらと興奮気味に話す。全く知らなかった事実に、不安になって寒河江くんの服を掴んだ。

「マ、マジで……?お、俺、そんなの全然知らなかったんですけど……退職した小学校の先生かなーとか思ってたよ……」
「小学校の?どうしてですか」
「そういやなんでだろ。小一のときからじいちゃんに教えてもらったからかな」
「け……螢山先生の個人指導を、十年も……?」

由井くんの体がぐらりと傾いた。
じいちゃんとばあちゃんには子供がいない。だから俺を孫ができたみたいだといって可愛がってくれた。あれだけ世話になっていたのにどうして詳しく聞かなかったんだろう。
誕生日と敬老の日にはじいちゃんとばあちゃんに欠かさず書を贈っていたのだが、そんなすごい先生相手に死ぬほど恥ずかしい行いみたいに思えてきた。

「どどどうしようやばい超ドキドキしてきた!こういうのってどーすればいいの由井くん!」
「い、今まで何も言われてないならそのままでいいんじゃないかと……。でも納得しました。部長の書風に惹かれた理由が。螢山先生とは違うのにどこか通じるものがありますもん」

筆を持ってないほうの手で、由井くんは心臓のあたりを押さえた。その表情は晴れ晴れとした笑顔だ。

「はー……どうしよう、おれ今、すごい興奮してます。螢山先生直々のお弟子さんが部長だったなんて……!もう新しいお弟子さんは取ってないって師匠が悔しがってたんで、ほんと――」
「ちょちょ、ちょっと落ち着こうね由井くん。弟子っていうか、俺ほとんどじいちゃんから書道習ってないからね。やり方を教えてもらったのは最初くらいだし、ほぼ自分で勝手に書いてただけだよ」
「だから部長はすごいんです!引きずられそうで怖いくらいですから」

言いながら由井くんが俺の手を握ってきた。そんな強く握られると痛いよ!あとめっちゃ汗ばんでて熱い。
彼とこんなにたくさん会話が続いたのって初めてかもしれない。
寒河江くんから由井くんの俺に対する考えは聞いたことがあるけれど、いざそれに直面してみたら何と返せばいいのか分からなくて、引きつった笑いしか出てこなかった。尊敬ってのは誇張表現じゃなかったのか。
気がつけば他の部員も俺らの周りに集まってきていて、何事かと成り行きを静観している。
どう収拾するかと困っていたら、寒河江くんが由井くんの気を逸らしてくれた。

「由井さ、盛り上がってるとこ悪いんだけど……その、ガゴウ?って何?」
「雅号は書道家としての名前。芸名って言えばわかる?」

ちょっと顔をしかめながらも由井くんは俺から手を離して、寒河江くんに説明した。

「あーそういう感じね。わかるわかる。お前にもあんの?芸名だかガゴウだか」
「まさか、まだそんなレベルじゃないよ」
「芸名なら自分で勝手に名乗っていいんじゃねえの?」
「そうしてる人もいるけど、だいたいは自分の師匠につけてもらったり師匠の一字をもらって名乗ったりしてるから」
「なんかお許し的なものがないとダメなわけ?」
「自分がその域に達したと思ったら名乗ればいいと思うけど」

書道の世界も所詮芸事。個人でついている先生の影響が大きいようだ。
そういうのとは縁のない俺は寒河江くんと一緒に感心していたら、由井くんがちらりと俺を見て半紙を新しいものに変えた。だからそれは寒河江くんのものだってば由井くん。

「たとえば……部長だったら、一般的に見て螢山先生が師匠ってことになるから一文字いただいて、本名と組み合わせてみると――」

由井くんが綺麗な字で『楠 螢文』と書いた。おお、なんだかすごく風流でかっこいい!
そしてその隣に『楠 崇山』と書いた。これも超かっこいい。書道の先生って感じ!
しかし、それを見た寒河江くんがぽつりと「すうざん……」とつぶやいた。

「……すーざん……?」
「楠スーザン……!?」
「待って待ってやめてそんな滝川クリなんたらさんみたいに呼ばないで!!」

周りで見ていた誰かがそんな風に言ったから慌てて反論したら、みんなが爆笑しながら「スーザン先輩!」「スーザン部長!」と囃し立てはじめた。
元凶である由井くんまで肩をプルプル震わせながら笑っている。その振動でボタッと紙の上に墨の点が落ちた。

書道部部長・楠崇文、引退間近にして『スーザン先輩』というあだ名を獲得してしまった……。


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