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触れている寒河江くんの手のことばかりが気になって、停留所のアナウンスがやけに遠く聞こえる。
俺は、それを振り払うことができずに下を向いた。

「……センパイが来なかった間にさ」
「ん?」
「由井にセンパイのこと詳しく聞いたんですよ。どんな人かとか、そーゆーの」
「えっ!なになに、何言ってた!?俺が何かやらかしたこと!?うわ怖ぇ!」
「大丈夫ですって。変なことじゃなくて……すごい、尊敬してる人だって言ってました」

尊敬――由井くんの口からその二文字が出てくるとは意外だ。そんな風にはまるで感じなかったし、内心ちょっと嫌われてるかもしれないくらいには思ってたのに。

「そ、そーなんだ、へぇ……」
「由井って、書道の腕かなりすごいんですよね?オレはそこんとこあんま突っ込んで聞いたことないんですけど、どっかの偉い先生に習ってるとかなんとか」
「ああ、書道教室行ってるらしいね。段位も持ってるみたいだし。き、聞いても俺には詳しく教えてくれないけどね……」
「あーそれ、センパイに言うの恥ずかしいみたいです」
「恥ずかしいとな」

それはどういった心境からくるんだろう。同じ書を愛する者同士、むしろ誇ってしかるべきだと思うんだが。

「あいつね、しきりにセンパイのこと、追い付けないとか雲の上とか言うんですよ。部長は天才だ、くらいの勢いで」
「天才ぃ?」

俺に全くそぐわない単語に声が裏返った。ヒクッと頬まで引き攣る。

「やばい……俺、由井くんにめっちゃ嫌われてる……」
「なんでそうなるんですか。嫌味じゃなくてガチですよ。それくらい尊敬してる部長には、自慢みたいなこと恥ずかしくてできないんだそうです。つーか普通に話すことすら緊張するらしくて、いつもうまく話が繋げられないって落ち込んでました」

嫌われてるから無口なんじゃなくて、緊張して話せないって?そんなことがあるの?俺ごときに。

「……そんでオレ、センパイが部活休んでた間に、センパイが書いた字とか全部見せてもらったんですよ。部室にいっぱい溜まってたでしょ」
「あー、だいぶあるね。書いたら書きっぱなしって感じだし、そろそろ整理しなきゃなーとは思ってるんだけど……」
「それ見て、たしかにほんと、めちゃくちゃうまいと思いました。だけど由井のと何が違うのかオレにはさっぱりで」

よりによって由井くんと比べないでいただきたい。俺としてはもう全然格が違うと思うんだけど。

「で、小磯から『部長の真の実力が知りたいならこれを見ろ』っていって見せてもらったんすよ。――去年の文化祭で、センパイが書いたもの」

我が書道部は、毎年文化祭では展示と実演を行う。展示に使う紙は自由、字も字体も自由。だからそれぞれ個性が出る。
そして実演――音楽に乗せて巨大な紙にその場で字を書くという、大掛かりなパフォーマンスだ。

書道部は俺の上の代までは人数が多くて、何故か全員男というところを除けばそこそこ規模のある部だったから見ごたえがあったはずだ。
ただ、やることは派手でもジャージかツナギの野郎集団で大変むさくるしいので、その場では盛り上がっても人気の出し物では全くない。墨や絵の具で汚れるから校舎の辺鄙な場所でやってたし、しかも他の人気企画と時間がかぶっていたから余計に身内での盛り上がりに特化していた。
俺は次期部長ということでメインの大文字を担当した。モップみたいな大きい筆を使って、字体は自由に、俺の気の赴くまま。
そのときのことを思い出していたら、寒河江くんが俺を見つめていることに気付いた。

「小磯が記録用に撮ったっていう動画も見ました。あれって書道パフォーマンスっていうんですね。オレ、書道のこと全然知らないし分かんないけど、なんつーか……それ見た瞬間、すごい鳥肌立ったんです」
「…………」
「字っていうより絵みたいに生き生きしてて、めちゃくちゃ迫力あって……上手く言葉にできないんですけど、その時ほんと、センパイのことカッコいいって思いました」

それは、ひどく熱のこもった言葉だった。それに合わせて俺の腕を掴んでいる寒河江くんの掌も、体温が上がったように感じた。

「オレ、書道ってトメだのハネだのガッチガチの字しか書かない地味なもんだと思ってたんです。だから、あんな書き方してもいいんだって知って目から鱗だったっつーか……。スゲー単純なんですけど、それ見てオレもやってみたくなったんです。だけど由井に、ああいうのは基礎がなってないと不恰好になるだけだって言われて……まあ、言われなくても自分でも字がヘタなのはわかってますけど」
「……それで、部活頑張ってやってたの?」

照れ笑いをしながら「はい」と寒河江くんが頷いた。その頬が興奮したように上気している。
そして俺は今、それ以上に真っ赤になってるはずだ。全身が熱くてたまらない。体温が上がったせいで心なしか目も潤んできた。

「そ、そっか……うん」
「センパイに書道教えてほしいのは、由井ほどすごさをわかってないかもしんないけど、センパイのことすごいと思ったからなんです」
「へ、へえ……」
「……なんかすいません、言い方がヘタで」
「そっ、そんなことないよ!あの……」

口の中に知らず溜まっていた唾をごくりと飲み込んだ。寒河江くんと触れている箇所がじっとりと汗をかいている。
どうしよう――やばい、嬉しい。

「……ありがとう」

意識せず出た言葉は、感謝だった。
それから二人して黙り込み、何も話さないうちに寒河江くんと別れた。
バスを降りた俺は、普通に歩いていたはずだったのに、いつの間にか走り出していた。自分の中の何かが燃え滾り、急かされているように足が、呼吸が早まる。

家には帰らず、その足でじいちゃんの家に駆け込んだ。
もう夜に近い時間だ。家にはじいちゃんもばあちゃんもいた。ばあちゃんは俺を見るなり「まあ男前になって。俳優さんみたい」と手を叩いて褒めてくれた。

「じいちゃん、書きたい」
「そうかい、そうかい。ホレ、おいで崇文」

じいちゃんは俺に書くなとは言わなかった。崇文の好きなようにしなさいと、ただそれだけ告げて手招きをした。
走って乱れた息を、墨を磨りながら整える。少し震え気味の指先まで血の流れが速まり、全身に濁流が巡っている気さえした。
書きたい。叫んで暴れ出しそうな今の気持ちをこの白い紙に記したい。
そうして思い浮かんだ字は、一つしかなかった。

「ほ、懐かしいねえ。初心忘るべからずとは、ヤァ重畳」

じいちゃんの弾んだ声が耳に入る。
俺は目の前の紙に集中していたから、その声は耳に入っただけで意識の外だった。

「『永字八法』とは、じいちゃんが教えて以来じゃァないか、崇文」


俺が選んだ字は――『永』、その一文字だ。


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