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馴染みのあるアラーム音が聞こえて、まぶたを押し上げた。
何度も瞬きをしつつ枕元に置いてあったスマホを確認すると、朝の七時前だった。

「うー……」

唸りながら起き上がって頭を掻く。間借りしている部屋のベッドの上で、掛け布団は足元に丸まっている。
久しぶりにぐっすり眠れた気がする。その証拠に寝覚めは良好だ。

ぼんやりと昨夜のことを思い出す。
――久しぶりにしたキスは長くなかった。
唇が離れたあと、仁科はもう一度俺の額にキスをして「おやすみ」とつぶやいた。そうして仁科はテーブルの上で鳴り続けるスマホを掴んで自室に戻り、ほどなくして着信音は途絶えた。
俺はしばらくその場に留まって、アクアリウムの中のエビがたゆたう姿を見ていた。
揺れる水草も、白い底砂から伸びる流木も紅白のエビも色鮮やかなのに、水の揺らめきで時の流れがゆっくりに感じられた。
癒されるでしょ、と仁科が言っていた水槽。仁科がたびたびアクアリウムを見つめてるのは癒されたいからなのか?

そこで一旦回想をやめ、ベッドから下りた。デスクの引き出しを開ける。
真っ黒な画面のままのスマホ。それを握り込んでリビングへと足を向けた。

「おはよー志賀ちゃん」
「はよ、萱野」

萱野はほぼ毎日、食事を作るため足繁くこの部屋に通っている。今朝も変わらず制服にエプロン姿でキッチンに立っていた。
お世辞抜きで萱野の手料理はどれも美味い。得意料理なのかエスニック風のメニューが多いが、朝は必ず洋食だ。今もうほとんど出来上がってる。

「なあ萱野、これなんだけど……」
「ん?」

壊れたスマホを差し出すと、萱野はクッキングヒーターを止めて首を傾げた。

「僕に?」
「えっと、聞いてないか?これ、仁科のやつなんだけどさ――」

どこからどうやって説明しようかとそわそわ足踏みしていたら、仁科の部屋のドアが開いた。
軽くあくびをしながら「お〜はよぉ〜」という気の抜けた声を上げた仁科は、俺と萱野を見てにっこり微笑んだ。

「萱野ちゃん。それ、処分しといて」
「かしこまりました」

たったそれだけで何を承知したのか、秘書・萱野は俺の手から壊れたスマホを受け取ってスラックスのポケットに収めた。気がかりのもとが手元から消えると肩の力が抜けた。
そうして萱野は調理に戻り、仁科はテレビをつけてソファーに座った。
少し待つと朝食が完成し、それらをダイニングテーブルに並べる萱野を手伝った。

食後、洗面台はそう広くないから順番に使うんだが、俺が顔を洗ったり歯を磨いたりしてる間に仁科は着替えをする。制服姿の仁科が来たら交代。
俺が着替えを終えてもう一度洗面台に戻ると、仁科はまだ鏡の前にいて、ヘアセットや香水をつけたりアクセ選びに勤しんでいる。
「お前まだやってんのかよ」だとか呆れつつ隣に並んで、俺も髪型を整える。時にはお互いのワックスを交換してみたりして。
この登校前の支度は、去年、生活をともにしているうちに出来上がった習慣だった。

いつもどおりの朝。昨夜のことなんか微塵も感じさせないような。
だけど俺は、身支度を済ませてカバンを萱野に持たせている仁科に向けて、いつもと違う台詞を放った。

「仁科」
「んー?」
「あのさ……学校、一緒に行かねえ?」

そう言うと仁科も萱野もそろって同じような表情をした。驚いたって顔だ。
しかしそれも一瞬で、仁科のほうは機嫌良さげに頷いた。

「うん、いーよぉ。じゃ、萱野ちゃんは先に行ってて」
「や、別に萱野も一緒でいいんだけど」

ていうか親衛隊長は当然セットだと思ったから仁科に声かけたんだけど。萱野もそのつもりだったのか、柳眉を上品に歪ませた。

「……お言葉ですが、仁科様。それは――」
「環」

言葉を遮って、仁科が萱野の名前を呼んだ。笑顔を崩さず、けれどわずかな反論も許さないような厳しい言い方で。
すると萱野は何を察したのか「出すぎた真似を」と頭を下げ、仁科の手にカバンを渡した。
仁科様親衛隊長はちらりと俺に視線を送ったものの文句も言わず、「お先に失礼します」と静かに退室していった。

「いいのかよ。あれって親衛隊長の仕事なんだろ?」
「えぇ〜、そーゆーわけじゃないよ?」

つまり萱野は自主的にお供してただけなのか?親衛隊ってやっぱりよくわかんねえな。
それにしても俺がいきなり「一緒に登校しよう」とか言い出したのは、昨夜から自分の中で気持ちが固まったからだ。
今まで仁科と登校したことなんてなかった。しかしまあ、好きなヤツがそばにいるのに何もしないってのも怠慢に思えて、まずは軽い誘いからはじめることにしたわけだ。
ダチを誘うのとは意識からして違うし断られるかもしれないとドキドキだったが、オッケーをもらってホッとした。
でもな、それ以上のことはまた別の話だ。

「行こ、志賀ちゃん」
「……いや手は繋がねーから」
「なんでー!」

なんでもなにもない。エスコートするかのごとく差し出された手をやんわり押し返す。跳ね除けなかっただけでも進歩だと思ってくれ。
手を繋いで登校って――俺を殺す気か!照れで!いっそ肩を抱かれたほうがマシだ!
俺はな、エロいのは平気なんだけどこういうピュアなやりとりは慣れてないんだよ。正直勘弁してほしい。
なのに仁科は珍しく譲らずブーブー言いながら手を握ってきた。それを引き剥がす俺、また手を掴む仁科、というくだらない応酬をしてたらだいぶ時間を食っちまった。
テスト初日にこんなことで遅刻したくないから、意見交換の末に折衷案で妥協した。
俺の二本指を仁科が握るっていう……あれ、なんかこれ普通に手繋ぐより恥ずかしくねーか?

まあ誘ったのは俺のほうだし数分のことだし、と心の中で言い訳しながら寮を出る。
そしたら登校するのに都合のいい時間帯にぶち当たっちゃって、周りからじろじろ見られるわヒソヒソされるわでいたたまれなかった。
いやいやいや、こういうのも込みで覚悟を決めたはずだろ、俺。頑張れ俺。
夏の外気だけじゃない熱が俺の顔に集中する一方で、そんな衆目に慣れてる仁科はご機嫌で隣を歩いていた。
道中、仁科様の登校を待ってたらしい親衛隊員の子が「おはようございます仁科様!志賀様!」と俺にまで挨拶してくる始末。もうやだマジ死ぬ。

仁科様との楽しい登校もたかが数分されど数分。
Sクラスは全学年まとめて旧校舎の最上階フロアに教室があって、新校舎の一般生徒とは隔絶されている。
その分かれ道ともいえる渡り廊下まできてようやく繋いだ指は離れた。
ちょっと名残惜しく思ってたら、仁科が顔を寄せて囁いてきた。

「ね〜志賀ちゃん、お昼一緒に食べよ?」
「……ああ、いいよ」
「迎えに行くねぇ」
「食堂前待ち合わせでいいだろーが」

はっきり「来るな」って言ったのに、昼前になって仁科様が萱野を連れてB組に姿を見せたもんだから廊下が一時騒然とした。
食堂の役員席で落ち着かない昼飯後、龍哉と千歳にこの一連の状況を説明しろとしつこく聞かれた。だから、好きなヤツに対するそれなりの行動に出ただけ、と答えた。
龍哉はあんまり納得してない感じだったが、それでも千歳とともに激励の言葉をかけてくれた。


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