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着信はいつのまにか鳴り止んでいた。
エアレーションの稼動音が響くなかで仁科の緩やかな息遣いが耳元をくすぐる。
俺を抱きしめる腕は力任せじゃなく、かといって緩すぎず、簡単に振りほどけそうな拘束なのに動けなくなる。この抱擁をどれだけの人が熱望するんだろう。
そのうちの一人が、俺だ。

「……志賀ちゃん、震えてる」
「…………」
「イヤ?」

違う。嫌なわけがない。
返事のかわりに仁科の背中に両腕を回す。ひっついたせいで暴れまくる俺の心音がダイレクトに伝わったとは思うが、かまわなかった。
知らないうちに口の中に溜まっていた唾を、ごくりと音を立てて飲み下した。

「……に、しな……、俺、お前に言ってないことが、あるんだけど……」
「うん?」
「その……お前が水槽に沈めたスマホ、なんだけど……俺が持ってる」

仁科の上半身が揺れた。お前の隠し事なんて実はお見通し、くらい言われるかと思ったら普通に驚いてる。
今の状況があの夜と少し似てたから、つい口を衝いて出たことだった。打ち明けるなら今だ、って。
やがてくすくすという軽い笑い声が響き、密着した体を震わせた。

「そうなの?なぁんだ、てっきり萱野ちゃんが片付けたのかと思ってた」
「いや、俺。机の引き出しにしまってある。……あの、悪かった、隠すようなことして」
「ん〜ん、いいよぉ。あれはもういらないから」

スマホを水没させる直前に見たような冷たい対応を覚悟してたのに、思った以上にあっさりと許してくれた。
むしろ全く気にしてないって口調で、やっぱりあのスマホはもうないものとして考えてるらしい。

「電源ついた?」
「つかなかった。たぶんだけど、完全に壊れてる」
「うん、それでいいよ」

ホッとしたような溜め息を吐きながら、仁科は俺をますます抱きしめた。
気持ちが良くてヘナヘナにくずおれそうになる自分を立て直すために話を続ける。

「てかお前、なんでスマホふたつも持ってたわけ?」
「必要だったから?」
「おい、質問を疑問形で返すなよ」
「えぇ〜?うーんと……私用と業務用みたいな?でもいらなくなっちゃった」

どっちが私用でどっちが業務用なんだか。それ以上はプライベートに抵触するから聞けないが。

「まぁとにかく、やっぱお前のもんだし俺が持ってんのも落ち着かねーから返すわ」
「いーらなーい。捨てといてー」
「捨てといてじゃねえよ。そんな簡単に、お前な」
「じゃあ萱野ちゃんに渡しといて」

もともとそのつもりだったから、と仁科がつぶやく。いよいよ萱野が便利屋に思えてきた。いや秘書だ、秘書だと思っておこう。
頭を抱えている仁科の手が俺の髪を撫でる。宥めるような優しい手つきだった。
ヤツの肩に唇を押し付けながら、わざと聞き取りにくい小声で問いかけた。

「お前、さ……」
「ん?」
「……深鶴さん、知ってんの?」
「テスト前に話すことじゃないなぁ」

仁科の声がワントーン低くなった。今度こそ、あの夜と同じく底冷えのする声音だ。
脈絡のない切り出し方だったが仁科のほうが何か思い出したように声を上げた。

「ああ、てゆーか、もしかしてあのときハナシ聞こえてた?あの時間だし寝たんだと思ってたのに」
「……悪い、ちょっと聞いちまった」

ちょっとどころか全部聞いたけど。偶然とはいえ立ち聞きなんてばつが悪くて言い出せない。
すると、はぁぁ、という大げさな嘆息が耳にかかった。

「もぉ志賀ちゃん、またテストすっぽかして追試になったらどーすんの」
「また?」
「この前だって名前聞いただけで遅刻したくらいなのに」

テストを休んだのはこれまでで一回しかない。中等部三年の夏休み前にあった期末テストだけ。そのときは一応、追試というか補習を受けてことなきを得た。
それは深鶴さんとの関係がもっとも悪化していたときのことだ。そのことを仁科は知ってるのか。
覚束なくなった手が滑り落ちないよう、仁科の背中に爪を立てた。

「お、俺と……深鶴さんの、前の関係、とか……」
「――知ってるよ」
「…………」
「深鶴が志賀ちゃんにしたことも、みんな」

全身がカッと熱くなって、反射的に体を離そうとした。ところが仁科の腕はそれを許さず、わずかに隙間ができただけに留まった。
なんとなくそうかもしれないとは思っていたが、こうして実際に本人の口から聞くと衝撃は隠せない。
恥ずかしい。今現在好きなヤツに元彼とのことを知られてることが。自分が失敗した過去のことを。
何か言おうとしても言葉が出なくて、何度も口を開けたり閉じたりをした。そんな俺の額に、柔らかいものが触れた。

「だいじょうぶ」
「に、し……」
「大丈夫だよ、志賀ちゃん」

穏やかで甘い声が吐息とともに耳に吹き込まれる。
額に口づけた唇は、「大丈夫」と繰り返しながら耳や頬、鼻の頭を辿っていった。
くすぐったくて顔を上げると目が合った。

千歳に言われた言葉が脳裏によみがえる。難しいことなんか考えないで、好きなら好きでそれでいいだろって。
同室の真似事をしていたこの一ヶ月、気持ちは薄れるどころか膨れ上がる一方だった。
過去の失敗から、俺には疑惑があった。この気持ちはコイツが仕組んだことなんじゃないかって。アホな俺はそれにまんまと引っかかっただけなんじゃないかと。
何せ百戦錬磨の仁科様だ。一年の間そばで生活していて、色香に惑わされ巧妙に絡め取られたとしてもおかしくない。
おまけにまともな恋愛は望めない相手だからイラついたりもした。
だけれど、なんだかんだと言い訳をこねくり回してみても、俺はまだ好きだと思ってる。疑いを持ちながら、それでも。
この気持ちが本物とか偽物とか、そんなのはもうどうでもよかった。仁科の取り巻きに恨まれてもいい。

仁科のスマホから再び着信音が鳴り出す。両耳が掌で覆われた瞬間、まぶたを閉じた。
緩やかに唇が重なる。
その一瞬だけ、俺の耳は何の音も拾わなかった。


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