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異様な光景を呆然と見てたら、小さく息を吐いた仁科がこっちを振り返りそうになった。慌てて頭を引っ込めて膝を抱える。
呼吸のひとつでも仁科に届きそうな気がして手で鼻と口を塞いだ。心臓がドクドクいうほど血の流れが速いのに、手は指先まで冷えていた。
その状態でしばらく固まっていたが、幸い仁科は俺の存在には気付いてないみたいだった。
そしてやがて、静かな足音とともにドアが閉まる音が聞こえた。自分の部屋に戻ったらしい。

リビングに一人になっても、他人の秘密を覗き見したような後ろめたさと緊張でしばらく動けずにいた。
仁科が部屋から出てくる気配がないのを確認して、そっとキッチンから抜け出す。

……何だったんだ、さっきのは。

こわごわとアクアリウムに近づいて中を見ると、やっぱりスマホが底に沈んでいた。
背面が上になっていてディスプレイは見えない。ゴールドの柔らかい光が水の中で揺れている。仁科の髪色によく似た、それ。
そして薄いスマホの上には赤と白の縞模様のエビが二匹乗っていた。……これ、まさかエビが下敷きになってたりしねえよな。

網みたいなものは見当たらなかったから、仕方なく水槽に手を突っ込んで仁科のスマホを掴んだ。水流に乗ってエビがゆらゆらと逃げていく。
スマホをどかしてみても白い底砂があるだけで、下敷きになったかわいそうなエビはいなかった。
また戻すのも変な気がして、そのままスマホを引き上げた。画面は真っ暗で、完全に壊れてるっぽい。
ずぶ濡れのそれをキッチンペーパーで拭いて、ちょっと生臭くなった手を洗う。
そのまま自分の仮部屋に戻ったあとは仁科のスマホをデスクの上に置いた。

ベッドに寝転んで目を瞑ると、さっきの光景がまぶたの裏に浮かんだ。
仁科は電話で「深鶴」って呼び捨てで呼んでた。あの人と個人的に何か繋がりがありそうな、そんな言い方だった。

――伊吹深鶴。
深鶴さんは、俺の元カレだ。中等部二年の冬から三年の夏くらいまでの、期間にして半年ちょい過ぎほどの恋人だった。

あの人との出会いは、俺が中二、深鶴さんが高二のときだ。
俺は、この学園の文化祭であの人と出会った。
中等部と高等部は立地的には結構離れてるけど行き来できない距離でもないから、高等部の文化祭は、中等部の生徒も見学することを許可されている。
これは強制じゃなくて希望の生徒だけなんだが、中等部のほとんどの生徒が見学を希望する。

俺は龍哉、千歳と一緒に高等部の文化祭を見て回ってた最中にうっかり二人とはぐれた。
運悪くケータイの充電も切れて連絡も取れずに途方に暮れた。
高等部の校舎なんて全然知らないし、中坊から見た高校生はすげえ大人に見えて、恥ずかしい話、ちょっと怖くて話しかけられなかった。

そんな時、困っていた俺に声をかけてくれたのが深鶴さんだった。
パッと見これといって突出したような容姿じゃなかったんだけど、真っ黒なストレートの髪が綺麗で、でもそれ以外は特に目立つような感じはしなかった。

ツレとはぐれて困ってるって打ち明けたら深鶴さんは軽く笑って、龍哉と千歳の特徴を聞くなりどこかに電話をした。そうしたら間もなく二人と合流できた。
深鶴さんとはそこから何故だか仲良くなり、冬休み明けに付き合うことになった。
男同士ってことに抵抗がなかったわけじゃないけど、ゲイだとかバイだとかいうのは周囲じゃ珍しいことでもなかったから、深く考えずに彼氏になった。

なによりあの人に惹かれたのは、普段はコンタクトレンズで隠している空色の瞳だ。
普通の日本人顔に青目というのを初めて見たときは驚いたが、何か、とてつもない特別なことのような、そんな気がした。それを神秘的にすら感じてた。
思えばその辺りから深鶴さんの術中に嵌まってたんじゃないかと思う。

男と付き合うのはそれが初めてだった。ただ、その付き合い方がまずかった。
深鶴さんって人は、ひと言で言えば『極端』だ。興味があるかないかで落差が激しい。
俺にはものすごく親切で、溢れんばかりの好意をこれでもかってほど注いでくれた深鶴さん。
でも、俺と同室で顔を合わせる機会が多かった龍哉に対しては空気の扱い。無視とかそういう次元じゃなくて本気で目に入ってない、誰もそこに存在してないって感じだった。千歳にも同じようにしてた。

千歳のほうはあんまり気にしてないっつーか、上級生なんて中坊に対してこんなもんか、くらいにしか思ってなかったようだ。
一方で、龍哉は千歳とは違う意見を抱いていた。深鶴さんの異質さみたいなものを薄々感じてたらしい。だからといって、俺と深鶴さんとの付き合いに口出しはしなかった。関わりたくなかったってのが本音だったみたいだけど。

俺らが会う時は、休みの日に深鶴さんが中等部の寮に来るか、外でデートするかって感じだった。
彼はなんというか、大人しい見た目に反して性的に好奇心旺盛な人で、会うたびに色々なことを経験させられた。
あんまり思い出したくないけど、ケツに突っ込まれる以外のことは一通りやった。……一通りを飛び越えたこともあったような。
そんなわけで今現在、俺の貞操観念が緩いのはほぼ100パー深鶴さんのせいだ。キスの一つや二つどうってことないって思うくらいには。
あの人と付き合う前はさすがに、人前で誰彼構わずチューするとかねーよっていう良識は持ち合わせてたんだ、これでも。


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