×
息ができない 苗字さんの口元を見る。綺麗な形の桃色がそこにあって、触れたいと咄嗟に考えてしまう。けれどそんな俺より先に財前はそこに触れたんだと思うと俺の心の中に大雨が降った。ああ、もう君の唇は財前のものなんだね、とキャラじゃないことを思ってみても失笑しか出てこない。俺キモイわ…ちゅうか財前羨ましいわ。苗字さんの初キスの相手が財前やなんて信じたくない。苗字さんがそんな軽々しく誰とでもするわけない。俺が知っている限り謙也や財前以外の人間には苗字さんは近づこうとしないし壁を何重にも作っている。そんなガードがっちりな苗字さんの唇を奪えたってことは財前と苗字さんってつまりそういう関係なんだろう。本当に? どこかで安心していた。苗字さんが他人を拒絶することをいいことに、彼女に一番近いのは俺だとどこか自信を持っていた。実際は謙也も財前も俺となんら変わらない位置にいたのに。財前なんていつの間にか俺より近い位置を陣取っていた。俺、告白する前に苗字さんに振られたってことなん? 苗字さんが安心して目を瞑れるように、もう倒れないように俺なりに知識を絞りそれをノートに書き出していく途中何度か苗字さんを盗み見た。苗字さん、というか苗字さんの唇を見ていたのだが。その度に財前がちらついて、しかも俺の脳内財前がしてやったりな顔をしながら苗字さんとチューしてる姿まで思い浮かんでしまって溜息を吐かずにはいられなかった。苗字さんに確かめるべき? 財前とチューしたん?財前とそういう関係なん?付き合っとるん?いつから?どんな流れで?…ストーカーか俺は! あー、だめだ。事実を確かめることが怖い。ちゅーかそれで「うん、実はね」なんて答えられたりしたら俺はどうする?俺はどうなる? その場で砂になってしまうかもしれない。 思わず大きな溜息を吐いてしまった。それからしばらくして苗字さんの申し訳なさそうな声が聞こえてきた。 「白石、ご、ごめんね。でも大切にしてないわけじゃないんだよ…?」 悲しそうに眉を下げながら俺を見る苗字さんにまたしてもグサリと俺の心にはナイフが突き刺さった。このままこの子に俺殺されてまうんかな、いっそのこと止めをさしてもらおうか。せや、苗字さんが自分の唇を粗末にするわけないんや。大切にしないわけがないんだ。 解ってる、からこそ辛い。ちゃんと解ってる、誤解なんかせえへんよ。彼女を安心させるために無理やり笑顔を作る。うまく俺は笑えてるだろうか。そんな心配をするなんて今の俺は全然完璧ちゃうわ。うまく笑えてへん自分なんてノット絶頂や。 「ああ、ええねん。大切にするんは当たり前や。それを捧げたんはつまりそういうことやろ…解ってるから心配せんでええで」 はあ、無意識にまた溜息を吐いてしまった。自分で告げておいてなんだけど、なんて辛いんだろう。心配せんでええとか言っておきながら心配しかない。なんで財前なんなんで俺やないん、なんて自分の器の小ささを見てげんなりする。苗字さんが幸せなら、笑ってくれるなら俺はなんだってする。そう言い聞かせてきた。そうだ、苗字さんが幸せなら、笑っていられるなら彼女の隣に財前がいることも受け入れなきゃいけない。その位置が、彼女を笑わせるのが俺じゃないのが癪だけど、受け入れていかないといけない。 憂鬱のループに陥っていたら、目の前に苗字さんの手が降りてきた。その前にバンと手のひらと机が打ち合った音がしてびっくりして苗字さんの方へ顔を向けた。 「心配しなくていいってどういうこと!」 「や、つまり…大切にしとったんは解ってるから適当に扱ってないって解ってるって意味やけど…」 「うん、まあ、そうだよ、そういうことだよつまり」 彼女は一度怪訝そうな顔をしてから納得したように、そういうことだよつまり、と脈絡があるのかないのかよく解らない言葉で完結させた。まるで独り言のようだ。そう思って、どうせ俺なんて相手にしてない、という俺の中に住んでる悪魔が囁いたのを感じた。その隣でクラ天使がそんなことないよ考えすぎだよと俺を励ます声もした。俺もいよいよ頭がどうにかなってしまったのだろうか。 「白石たちさっきから会話噛み合ってないんちゃう?」 「へ?」 「謙也…」 上から聞こえてきた謙也の声に下げた視線を再び上へ向ける。きょとんとした間抜けな顔でじゃがりこかじってる謙也がいた。ああこいつはいつも幸せそうやな、じゃがりこなんて食べてほんま幸せそうや…。 確かに苗字さんの返答はあまり理解できなかったけど、彼女がそれで完結させたんだからきっとそれでいいんだ。俺と会話しているようで実際彼女は俺となんて会話していなかったのかもしれないし。噛み合ってないと見えても仕方ない。 謙也が苗字さんと会話し始めた。会話に混ざる気力がわかなかったのでその場を去るわけでもなく外の景色に視界を写した。ああ、空が広いようで狭い。そういえば、苗字さんと関わるきっかけになったあの日、保健室から見た空はもっと狭かった気がする。そこで思い出さなくてもいいような苦い記憶を思い出してしまった。鮮明に記憶が呼び覚まされる前に謙也の声によって、あの日のあの光景が再び記憶の奥底へと沈んでいく。助かった、そう思いながら謙也の方を向けば、じゃがりこを苗字さんに分けながら真面目な顔をしている謙也がいた。普通にしてる時とさして変わらないのだが、付き合いが長くなってくるとこいつの微妙な顔の変化も読み取れるようになってくる。俺なんかしたかな。 「お前、財前に何かしたん?」 「えっ…」 「どーせ最近サボりすぎやって注意でもしたんやろうけど…かなり凹んどったで」 「いや、注意とか…」 また財前のことかいな。今一番耳にしたくない名前に思わず眉を潜めてしまった。 謙也はそんな俺に気づいたのか気づかないのか、ぱっとどうでもいいという顔を作って勝手に話を作っていった。…財前が、かなり凹んでた? なんでだ。かなり凹んでんのはむしろ俺の方やっちゅーねん。財前にめちゃくちゃ凹まされてるっちゅーねん。 真相を告げるわけにもいかずそのまま言葉を濁していると謙也はそのまま自分の言葉でこの話を打ち切った。オートで始めから終わりまで面倒みれる奴ってええなとぼんやり思った。 「部活のメニューでも増やしたったんやろ、災難なやっちゃな」 まあ、そういうことにしておこうか。 |