星とメランコリー | ナノ
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切なく響く


喉が渇いたので近くのコンビニに寄り、ソルティライチを購入した。これを選んだ理由は、うたい文句が健康によさそうだったから。
今日はなんと廊下で忍足に会いに来た財前と会った時に「相変わらず不健康そうっすね」と言われたのだ。健康オタクと呼ばれる白石に言われるならまだしも、一応後輩になる彼にまで言われたことが意外にも心に痛かった。そんなこともあってちょっと健康になってみたいと思ったのだが、単純以前に私はアホなのかもしれない。ジュース一つで健康になった気になれるのだから。まあ安上がりだし節約上手なんだろう。いや違うだろう。
一人漫才を脳内で繰り広げながら玄関の戸を開ける。ローファーを脱いだところでその場にある異変に気づいた。

「この靴…」

普段自分が帰宅するころにはないはずの靴がある。
これは父親が毎朝仕事に出る時に履いているそれなわけで。普段であればこの時間、父は会社にいるはずなのになぜ私が帰宅するよりも前に父がいるのだろう。何かいけない、とかそういうわけじゃないけれど。今朝も父は私と同じくらいの時間に家を出て行ったはずで、この時間に父が家にいるというのは本当に珍しい。
ただいまの声でもかけにいこうかと両親の話し声が聞こえるリビングへ向かう。
近づくにつれて話し声以外に音のないこの家、空間に両親の話声がはっきりと私の耳に入ってくる。リビングへと続く扉は開けられている。壁の影で足が止まってしまったのは、話の中心になっているのが私のことだったから。声のトーンからしてあまり明るい話題ではないらしい。

親はどうやら私が帰宅していて、ここで話を聞いていることに気付いていないらしい。
息を止めているのか出来ないだけか、とりあえず息を殺して脱いだばかりのローファーに足を入れる。慎重に音の出ないようにと気をつけながらドアを開ける。
こんなにどんよりした心に晴れた青空が憎らしい。


あの子の為とはいえ
だから私は転勤に反対だったのよ
転校してみてもあの子からは何も言わないし
あの子にしてもあなたにしても、私にとってもここに来たのは失敗だったんじゃないかしら
あの子の為なんて言ってあなたが体調を崩したりしたら元も子もないじゃない
あっちには今からでも戻れるんでしょう?
だったらあなたが無理することないのよ、もう一度あっちに戻って頑張ったら?



断片的ではあるけど、母親の声が頭の中で聞こえる。父の声も聞こえてたけど思い出したくなかった。
私、本当にいろんな人に迷惑かけてる。迷惑しかかけてない。
お母さんもお父さんも私のために本当は嫌だった転勤の話に乗ったんだ。それはずっと解ってた。だからあまり負担にならないようにと頑張ってきたのに、結局私は2人の重荷にしかなっていなかった。
仕事がうまくいかないのと体調不良が原因で早退してきたお父さんの声は本当につらそうで、お母さんの声も泣きそうな苦しそうな声だった。私がいなかったらあの二人の負担はなくなるのだろうか。
今からでももう一度あっちに戻って、そこまで母の言葉が頭の中で再生された。またあの町に戻るの?
今のこの生活から、環境から離れなくちゃいけないの?
嫌だなんて言える立場じゃない。そんなこと言ったら私はこれ以上の負担になる。私のためにこんな遠くまで来てくれた両親を更に苦しめる私ってなんなんだろう。
私がいなくなれば、私さえいなければ、消えてしまえばそんなことばかり考えながら歩いていたら危うく車に轢かれるところだった。
消えたいと思ってるくせに死のうと思えない自分が弱くて情けなくて、思わず死にたいと思ってしまった。けど決して行動に移せない。私はなんて甘い人間なんだろう。自分が嫌だから消えたい、だから死にたいけど死ねない。私はどうしたらいいの。


「名前さん!」
「し、らいし?」

そうだ私は危うく車に轢かれそうになったんだった。車に気付いたのは私じゃなくほかの誰かで、私を止めたのも私自身じゃない他の誰かであったことをこの時ようやく思い出した私は、目の前の人物と同じような顔になった。あっちも驚いた顔をしている。
「危ないやろ!」
「うん、ごめん…ありがとう」

ありがとう、その言葉を言い終えた時にじわりじわりと景色が歪んですぐに頬に涙の道ができた。うれしいのかかなしいのか。この涙の意味とこのもやもやの意味はなんだろう。白石が慌てて謝るのに対して首を強く横に振れば彼は私の様子に違和感を覚えたのかどうしたのかと訊いてきた。
何故だか溢れるばかりで止まらない涙を拭っていると白石の手が私の手首を捉えた。お互いに困惑しているな、そこを冷静に考えられるのに他のことになると何も考えられなくなる。

白石は私の手を引きながらそばに倒れていた黒い自転車を立たせて、後ろへ乗るよう指示してきた。
返事をしないままただ立っているだけの私を見て白石は溜息を吐くと、自転車をその場でとめ直して、私を持ち上げ無理やり荷台へと座らせた。講義の声をあげる前に白石はサドルへ跨っていた。

「ちょ、白石!」
「絶対、俺から手離さんといてな」

名前さんが落ちたら俺もチャリの上で逆立ちして坂下ったるからな、と脅されては何も反抗できなかった。白石が逆立ちしながら坂を下って大怪我(もしかしたら怪我じゃすまないかも)でもしたら大変なのでおとなしく落ちないように白石に掴まる他ない。
好きな人と二人乗り…しかも相手が白石だなんて私はなんて幸せ者なんだろう。嬉しいはずなのに、とっとも喜べないのは何でなのか。すごくドキドキしそうなのに妙に落ち着いているのは何故か。涙が止まらないのは何故か…
…それは先ほどの両親の言葉が頭から離れないから。