星とメランコリー | ナノ
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不確かなシャングリラ


図書室で軽く調べ物をした後、教室に鞄をうっかり忘れてきていたことを思い出し教室に戻ると中からクラスの女子たちの談笑している声が聞こえてきた。掃除当番の女の子たちが残ってお喋りに花を咲かせているようだ。困った…調べ物ついでに借りてきた本を握り締める。入りづらい。

彼女たちが出てくるまでおとなしくここで待ってようか…出てきたら偶然を装いさりげなく中へ入ることにしよう。

はあ…深い溜息を漏らす。何で教室に入っていけないんだろう。鞄を自分の教室に忘れて取りに来ただけなのに。そもそもあの子たちも掃除が終わったならさっさと帰ってくれればいいのに。もしかしてまだ掃除終わってないのかな。じゃあ喋ってないでとっとと終わらせて帰ってくれないかな。心の中で不満を次々吐き出す。いや、私が背中のすぐ後ろにあるドアを引いて何気ない顔しながら鞄を取ってきてしまえばすむ話なんだけども…。

壁にもたれかかありながら中から聞こえてくる楽しそうな声に、ほんの少しだけ羨ましいなと思った。
もうあまりはっきりと思い出せないけど、あんな風に友達と放課後教室で笑いながら話していたことが自分にも確かにあって、ちょっと前のことなのにもうずいぶんと昔のことのような気がする。教室の中にあるであろう光景が、すでに懐かしいと感じるなんて。談笑していたあの頃よりも、その後の数々の嫌がらせの方が印象に残って驍ニいうことなのか。

幸せはいずれ薄れてしまうけど、嫌な思いでは心の中に濃く残って中々忘れることが出来ないなんて。私の頭はそう都合よくはできていないようだ。楽しかったことだけ、覚えていられる頭をしていたらよかったのに。
でもそんなだったら、人の痛みも知ることができないんだろうな。人の心に強く残ってしまう傷だって、理解できないままだっただろう。

それと同時に、悲しみを知ったせいで人との関わり方を忘れてしまったけれど。人との繋がりが恐怖の対象になってしまったけれど。


「あれ、これって苗字さんの鞄とちゃう?」
「あー、ほんまや」
「苗字さんっていえばさぁ」


心臓が大きく跳ねる。今、私の名前が出てきた。この流れ、知ってる。胸騒ぎがして、頭の中に糸がピンと張ったようなそんな痛みが走る。彼女たちから吐き出される言葉を聞くつもりはないし、出来るなら耳を塞ぐかここから立ち去るかしたいのに。何もアクションが取れない。足の裏がべたりと床と同化して、両手で握った本に接着剤でも付着しているかのように手を動かすことも出来ない。

「何でいつも1人でおるんかな?」
「さあ?」
「でも最近白石君とよお話しとるの見るな」
「そのことなんやけどな」

どうして、こんなにも彼女たちの声が鮮明に届くのだろうか。拾いたくない言葉をどうして拾ってしまうのだろうか。彼女たちの声に混ざって自分の心臓の音まで鮮明に聞こえてきそうだ。息が、できない。

「忍足君に聞いてんけど、苗字さん人見知りなんやって」
「へぇー」
「転校して来た時話かけてもそっけなかったからそうなんやろな、とは思ってたけど」
「私な、苗字さんと喋ってみたくて忍足君に言うたんよ」
「マジ!?で、なんて?」
「話してみたらええ子やって分かるからって笑ってたわ」
「話かけてもあの子いつも苦笑いするやん!」
「根気が大事らしいんよ」
「忍足たちも頑張ってたもんなぁ」
「ちゅーか何でこっちからいったらなあかんねん」
「そら苗字さんと仲良うなりたいならこっちが行くんが筋やろ」
「そうかな?」
「苗字さんってシャイなんやろ?ほんなら余計こっちから行ったらな」
「あんたええ子やなぁ…」
「フレンドリーなんよ」

彼女たちは楽しそうに笑い声をあげた。私はというと、嗚咽をもらしそうになってしまった。
忍足がそこまで気にかけてくれてたこととか、彼女たちの会話とか、明るい声とか全部が涙腺を刺激して、気が付いたら目の前がぼやけてしまった。私はどうしたらいいんだろう、どうしたら彼女たちのように笑えるだろう。いつか、彼女たちの輪の中に入っていけるだろうか。
そんな日が来るといいな、とか今更だけど思ってしまうのは単純だろうか。私には贅沢だろうか。罰があたってしまうだろうか。少し欲張ってみても、頑張ってみてもいいのかな。

そろそろ帰ろうかと切り出した声に慌てて隣の空き教室へ逃げこむ。深呼吸を数回繰り返して、目元を拭う。
今夜もきっと眠れそうにない。それは、昨日とはまた違った理由で。