星とメランコリー | ナノ
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剥がれた文飾


「逃げてきた」

泣き止んだ彼女は、目を拭いながらそう口にした。3拍ほど置いてから、「親の転勤って、こっちに来た理由を聞かれた時は言うんだけど。本当は…」そう付け加えられる。それ以上言わせたくなくて、俺の気持ちを押し付けるように苗字さんの小さな口を塞いでやった。彼女はびっくりしたように目を見開く。
苗字さんの唇と俺の手のひらとの微かな隙間に彼女の吐息がかかってくすぐったい。
彼女は眉を八の字にしながら、言葉の続きを出すことを諦めて俺の手を自分の手で口元から退けた。

彼女は本当は打ち明けて、気持ちを吐き出してしまいたいのはわかっていた。でも、俺が聞きたくなくて、きっと言ったら彼女はまた自己嫌悪するし、よけい苦しくなる気がした。逃げてきた、なんて彼女は思うかもしれないけど、そうじゃない。彼女は自分を守るためにここに来たのだ。
逃げてきた、それが正しいというならそれでいい。だけど、自分を守ることの方が大切やと思うし、それにそっちのが響きもええやろ。そう言うと彼女はまた驚いた顏を見せて、少しだけ笑った。

「そういう考え方できる白石ってすごいね」
「なんやそれ、皮肉?」
「素直な意見を皮肉扱いしないでよ」
「すまん すまん」

ふざけたように笑う俺を見て、目の前の彼女は頬をちょっとだけ膨らませながら「真面目に言ってるんだからね」と確認するように言う。幼さの残る顏が、俺を見据える。ああ、苗字さんてこんな顏も出来るんや。無愛想なんだと思った彼女は案外表情豊かだった。もっとクールな人や思って接したら思った通りツンツンやし見かけによらず毒舌やし…でも、すぐに感情が表に出る。そのことがおかしくて、頭を下げてくつくつと笑う。その時に、俺の手に未だに添えられている苗字さんの白い手が視界に入って、「あ」と短い声が出た。

「何で笑ってるの」
「苗字さん、これ…」

今にも折れてしまいそうな苗字さんの手首を持ち上げる。彼女はそれがどうしたのという顏をしながら首を傾げた。白くて細い手。自分のと比べたらやっぱごつごつしてないし、細い。他の女子と比べても細いくらいだ。

「細すぎやない?」
「そうかな」
「持ち上げた時も思ったんやけど、苗字さんちょお痩せすぎちゃう?」
「女子ってそれくらいじゃないの」
「女の子と比べてもや」

彼女はムッとしたように俺を軽く睨む。頬に少しだけ赤がさしたのはきっと恥ずかしいのだろう。

「俺な、妹と姉貴がおるから解んねん。苗字さんとうちの姉貴が同じくらいの身長なんやけど…」
「白石なんでお姉さんの体重まで把握してるの」
「風呂場でよう自分の体重叫んでんの聞こえるんや。別に太ってへんねんけど…それと比べてもめっちゃ軽いってことは痩せすぎっちゅーことやろ」

説教をしているようだと、内心で苦笑いする。

「苗字さんて貧血とか、なりやすいやろ。ちゅーかよく体調崩す」
「まあ…特技化してきてる」
「アホか」
「す、すみません」
「ちゃんと食べなアカン」
「はい」
「食べるだけやないで」
「食べろって言ったじゃん」
「栄養も大事やねん。食べ過ぎてもアカンしな」
「白石ってうちの母親よりお母さんっぽいね」
「よう言われるわ」
「面倒見がいいんだね。今度からママって呼んでもいい?」
「それだけは勘弁してください」

それから約1時間半、俺の栄養講座が続いた。苗字さんは昼休みよりもやつれていた。

「ねえ もう放課後なんだけど どういうこと?」
「すんませんでした。ほんま堪忍してください」
「化学の成績危ないんだけど、単位どうしてくれんの」
「化学なら俺めっちゃ得意やからよかったら教えるで」
「勉強教えればいいってわけじゃないのよ。出席数!」

それから約30分もの間苗字さんの怒涛の仕返し、もといお説教が続いた。踏んだり蹴ったりや。