星とメランコリー | ナノ
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レディの弱音


「これ、私が言ったって内緒ね」
「おん」

静かに囁くような声でそう言った苗字さんは、俺の返事を聞いてから漸く目をあけた。何かに耐えているような、そんな目をしていた。
苗字さんの目から涙が頬を伝う。どっか痛いのか、どうしたんだ、と訊いても苗字さんはただ首を横に振るだけだった。彼女の目元を拭おうと伸ばした手は、苗字さんにいとも簡単に払いのけられ拒絶されてしまった。彼女はシーツをぎゅっと固く握ると、シーツの中で立てた膝の上に頭を預けた。タカハシさんの話をしている時の苗字さんは、まるで自分のことのように辛そうに顏を顰める。それは、ただたんに彼女が優しいだけなのだろうか。

どうして彼女が泣くのか解らなかった。そこまで悲しむ理由は何か考えて、考えたくない一つの可能性が浮かび上がる。苗字さんは、どうして他人を拒絶しようとするのに自分を受け入れてもらおうと手がかりを残していくのだろうか。人と関わりたいのに関われない。前に保健室で話した彼女との会話からでも考えれば充分にその可能性まで辿りつくことは出来たかもしれない。

彼女が何か喋るまで何も言えない自分に嫌気がさす。何も言えない代わりに、小さく揺れる頭と肩を優しく撫でる。と、一瞬驚いたように肩が跳ねた。俺がもしここに居なかったら、彼女はもっと素直に泣けているんだろうか。そうなのかもしれない、きっとそうだ。それを理解していながら側にいたいとこの場に居座ってる俺は、自分のエゴを彼女に押し付けているだけに過ぎないのだ。

「眠れなくなったの」

震える声で、彼女は小さくそう呟く。眠れなくなった。それは、不眠症ということなのだろうか。苗字さんの目の下には少し目立つくらいのくまがある。あまり健康的とは言えなかった。

「夜、ベッドの中で目を瞑ったら…思い出すの。何度も、毎日あったことが頭の中で繰り返されるの」

彼女の肩の震えは、いつの間にか止まっていた。苦痛とか耐え切れない程の物が彼女の小さくて細い背中に乗っていると思うと、今すぐそれを全部払いのけて抱きしめたくなる。俺にそんな権利はないし、そんな義務もないのだが。

「眠ったら、夢の中で繰り返される。怖くて怖くて、夢の中から出ても怖いのは止まらなくて、」

背中を撫でる手が止まる。

「寝れないの」

声の震えも、止まった。

「学校、行けなくなって当然でしょ?! だってあの中にいたら自分を否定され続けるんだよ」

それは、タカハシさんのことを言っているのか…―― それとも自分のことを言っているのだろうか。
そのタカハシさんに自分を重ねて、彼女は自分を縛っているものを思い出しているんだ。

「どうしてっ…他人に、こんなに振り回されなくちゃいけないんだろう、って思う…でも振り回してる側は解らないでしょう? 苦しめてるって自覚がないのかもしれない、あの人たちはただ楽しんでるだけなのかもしれない。みんながそう思ってなくても、誰も助けてくれない…自分だって、自分のこと助けられないの、」

そんなの悔しいじゃない、掠れた声が耳にいつまでも残る。悔しい、そうだろう。あいつらはきっと今、苗字さんのことを忘れて、何もなかったように暮らしているのだろうから。今でもこんなに苦しんでる彼女のことなど知らずに、楽しくやってるんだと思ったら自分のことじゃないのに、自分のことのように悔しさが流れ込んできた。

彼女はこうして苦しんで、今も苦しめられて、人と関わることに恐怖するようになって。それってどんな気持ちなんだろう。そうさせてしまった側の気持ちってどういうものなんだ。理解したくない、と思った。
そんなこと知っても無駄なような気がした。

黙り込んでしまった彼女は、俺が困っていると思ったのか、「ごめんなさい」と一言謝った。

「白石の話聞くはずだったのに…ごめん、こんな…」

シーツを握る手に再び力を加えながら彼女は苦しそうに目を瞑る。

「不幸自慢みたいな話ばっかりして、ごめんなさい」

彼女はきっと自分でも、何を話していいのかわからなかったのだろう。話すつもりなんてなかったんだと思う。でも話してしまう。
甘えたいのに、甘え方を知らない小さな女の子の肩を割れ物を扱うように壊さないように優しく抱くと、その子は一瞬身体を強張らせた後、嗚咽を必死に押さえ込みながら涙の染みを白いシーツの上に作った。