星とメランコリー | ナノ
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優しい足音を届けて


今日も私の周りは平和だ。私一人の平和が崩れたとしても、周りの平和はきっと続く。たった一人に世界は振り向いてはくれないから、たとえ一人いなくなって消えて平和が崩れていったとしても、何も変わらず世界は穏やかに時を刻んでいく。それは当然のことで、理解できる。けど、目の前で崩れていく平和を誰一人として気にかけないのは、とても寂しくて辛くて、理解できてはいるのに受け入れることができない。世界はとても穏やかに歴史を刻んでいくけれど、内容も世界そのものもとても残酷だ。

おさらいをするように、私はまた自分に問いかけた。
昨日は何をしただろう。何を得ただろう。何か変わっただろうか。―― 思いつくものはなかった。ただ昨日と変わらない今日があっただけ。
じゃあ今日はどうだろう。何かを得て、何かを変えることが出来ただろうか。やはり何も思いつかない。
昨日もその前もきっと何もなかったんだ。劇的な何かを私は求めているのだろうか。だから何があったか、何をしたか、をパッと思い出すことが出来ないのだろうか。私はどこまでも貪欲で、わがままだ。現実的じゃないことばかりを望んでしまう。
超能力が使えるようになるとか、そんな非現実的なことじゃなくて、私が望んでいるのはもっと現実的なものなんだけど、実現する可能性が低いもの…だった。そんなものを望んでいる。

些細なことでいいから思い出してみようと、昨日授業でやった範囲や食べたものを思い出していく。昨日の私は珍しく全部の授業に出席して、お昼は朝学校へ向かう途中にあるコンビニで買ったクリームパンを食べた。それから学校内の自販機で買ったお茶を飲んだ。それからチャイムが鳴って、帰りに本屋へ寄って気になった内容の本を2冊買って、帰って。あとはどうしたっけ。思い出せない。

今朝はどうしたっけ。学校についてからのことしか思い出せないのは何でだろう。

今は昼休みの後で、この授業が終わったら5分間の休みをとってまた授業を受ける。授業が始まってしばらくたって、目の前が霞み始めているのに気がついた。あれ、と思う前にずきりと頭に痛みが走る。なんだがお腹まで痛くなってきた。このままだと吐き気までしてきそうだ。授業が終わったら保健室へ行こうか。外の空気を吸っていれば治まるだろうか。今日は屋上に行こうかな。授業が終わるまでまだ30分くらいある。我慢できるか、治まってくれるか…希望を抱いたつもりが我慢できる自信もこの不快感が治まる気配もなくて、これはやばいと直感した。横になりたい。

こつん、と身体を前に倒して机に額をつける。落ち着かせるようにゆっくりと深く息を吸う。

席を立って先生に保健室へ行くと告げる。先生は私の顔色が悪いのを見て驚き、大丈夫かと訊いてから「一人で歩いてって廊下で倒れたりしたら大変やから…保健委員、苗字のこと保健室まで送ってけ」、そう白石のことを見ながら指示を出した。
一人で大丈夫です、と言おうと思ったのに間髪いれずに白石は、「はい」と短く答えて席を立ってさっさと私の隣に並んでしまった。私に発言の隙を与えてくれない。
おい、白石…あんた私が目立つの嫌いだって知ってるでしょ。白石に対して悪態を心の中で吐いても、彼のせいではないのだから意味はない。ならば先生に悪態を吐くまでだと先生に余計なことしないでよね、とやはり心の中で呟いた。なんの意味もなかった。

白石に同伴してもらうことになったのは仕方ないと諦めて、一刻も早く保健室のベッドに横になりたいとそそくさと教室を出た。それからクラスの目を早く逸らしたいのもあった。本当に心配してる人なんているのだろうか。

「苗字さんほんまに顔色悪いけど、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないっぽいから保健室行くんだよ」
「それはそうなんやけど、そうやなくて…歩けるかってこと訊いたんやけど」
「…ああ、お気遣いなく。歩くことくらいできる」

私はつくづく可愛くないな。もう少し元気があったら白石を残してトイレへ入り自分の頬を思い切りグーで殴ってやるとこだ。体調が悪いからって白石に八つ当たりすんな、って。

「それ歩いてるつもりなん?」

白石が呆れたような声で後ろから言う。ええ、これでも歩いてるつもりなんです。背中を伸ばすと吐き気がひどくなるし頭のグラグラが増すしお腹痛くなるし、真っ直ぐに立って歩けないので仕方なくお腹を左手で抱えて右手を腰に当てながらまるで老人のように前かがみになってよちよちと歩くしかないのだ。笑いたければ笑いなさいと、すでに恥は捨てている。
何でこんなグラグラするんだ。謎の腹痛に悩まされながら少しずつ足を進めていると、目の前を白石が塞いだ。いつのまに追い抜いてたんだ。

「負ぶったろか?」
「いらない、大丈夫」
「大丈夫そうやないんやけど」
「歩ける」
「歩けてないやん」

彼はわざと私に聞こえるくらいの溜息を吐いて、私に背を向けて片足を立ててしゃがんだ。私が彼におんぶしてもらうだと? そんなことをしてみろ、もし誰かに見られたりでもしたらどうするんだ。
彼に迷惑をかけているのは解っている。でも負ぶさることはできない。捨てたはずの羞恥心とか先の心配とか申し訳なさとかとりあえずアレなのだ。

「早く乗ってくれん?」
「いいってば」

壁に手を付いて軽くそっちに体重をかけながら、白石を無視して足を進める。彼はイライラしたように「もうええわ」と呟いてから立ち上がった。私のせいなんだけど、ちょっと怖かった。私のせいで怒らせてしまった。でも、安堵したのも事実、おんぶは回避できたのだから。
私の思い通りになったのに、気を遣ってくれた白石に申し訳なくて口にはしないものの小さく心の中で謝罪した。彼は本当に優しい人だ。怖いくらい いい人だ。

壁に手を付いている腕を、またしても目の前にやってきた白石によって掴まれる。吃驚して白石を見ると彼は、私に笑いかけて、「そっちがその気なんやったら、俺は勝手にするで」とわけのわからないことを口にしながら掴んだ方の手に力を入れてひょいと私を肩に担いでしまった。……は?
担がれてるんですか、私。何が起きてるのか把握できない。いつもと違う景色に目をぱちくりさせる私をお構いなしに、白石はくるりと身体の向きを変えて廊下を歩き出してしまった。

「ちょ、ちょっと…っ!」
「病人は、無理せんで休んどったらええねん」
「や、ちょ、おろしてよ」
「保健室着いたらおろすわ」
「そうじゃなくって! こんなとこ人に見られたらどうするの」
「どうもせんやろ」

彼はいつもより若干低い声で一言そう言って、私を抱え直して(担ぎ直して、の方が正しいかも)早足で廊下を進んでいく。運ばれるのは楽で体調的にはいいんだけど、なんかこう別の意味で苦しい。
何度目かわからないけど、また仕方ないと諦めた。今日だけでいくつのことを私は諦めたんだろう。
諦めた後にいつも残る罪悪感も窮屈感もなくて、何故か今回は解放感のようなものが沸いてきた。それがなんだかくすぐったくて、ただきゅうと目を閉じて白石の肩から落ちないように片手を白石の首に回した。
白石が小さく笑ったような気がした。

「………ありがと」

階段を降りてる途中で気付いたんだけど、これっておんぶ通り越して抱っこだよね。お姫様抱っこよりはましだけど、でもこれだったらさっき素直に負ぶさっておけばよかった。