あなろぐがーる | ナノ
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店を出る。今にも泣き出しそうな雲が空を覆っていて、こっちの気分まで暗くなる。少し、肌寒い。もし今日が晴天だったなら、もっとすっきりと物事を考えられたのだろうか。もっとすっぱり気持ちに区切りをつけられただろうか。
「まだ時間あるし、どっか行く?」丸井が訊くのと同時に、それは自然に手が伸びてきた。そしていつものようにぎゅって軽く握られる。存在を確かめるように握るのはどうやら丸井の癖らしい。自然すぎて、一瞬なにが起こってるのかわからなかった。反射的に、その手を振り払う。払ってから、「え?」、と今更現状を把握したように声を出した。もちろん、私が。丸井も私も吃驚した顔でお互いを見る。丸井の体温から引き離した手が、妙に冷たい。一瞬にして場が凍った。き、気まずい!

「や、‥ごめん、ちがくて」

あわてて否定するが、何が違くて、何が正しいのかと問われたら答えをきっと見つけられないだろう。ほんとわかんない。わかんないのがわからない。私にも何がなんだかわからん!
だって、私の視界はクリアで、丸井が気遣う必要も、手を握る必要もないのに。

「いや、こっちこそ悪い。つい、な」

癖になってしまった。丸井が言いたいのはそういうことか。そりゃそうだよね。今週ずっとしてきたことなんだもん。丸井の理由を残念に思う要素なんてなにもないよね?
苦笑いを見せた丸井に、なんだかこっちが苦しくなってしまった。

「う、ううん。吃驚しただけ」

そこで、その話は終わった。暖かい風が戻ってきて、氷を溶かしてしまったように普通に歩き出す。ほっと、心の中で安堵の息を吐いて、寂しげにぶら下がる左手に目をやる。触れそうで触れないのがもどかしい。丸井が歩くたびに小さく揺れる手が気になってしょうがない。いつもなら(ついさっきまで)つながっていた手が、今はつながってない。今から、つながることはもうないんだ。私が、丸井の手を振り払わなかったらこんな思いしなくてよかったのかな。寂しげな左手が、丸井の体温を探しているようだった。

「あ、」

隣を歩く丸井が何かを発見したような声を発する。どうしたのと訊く前に、それは私の眼鏡の上に落ち、視界を濁らせた。ぐにゃりと曲がった主線に心の中で舌打ちして、眼鏡の上に落ちてきた雨粒を服の裾で拭った。「雨だな‥‥」 丸井が、静かに呟く。それからポツリポツリと音を立てながら、雨が水道の蛇口を捻ったように降り始める。頬に当たる水玉が痛い。

「本降りになる前にどっか入るか」
「うん」

すでに本降りになりかけている、ということは言わずに早足に歩道を進んでいく。丸井の提案に賛成して間もなく雨はポツポツという音からザーという音にかわる。本降りの合図だった。雨のせいか、少し肌寒い。今さっきまで賑わっていた道が、今は雨の音に支配されている。道行く人は一足先に喫茶店なんかに雨宿りしに行ったようだ。私たちももっと早く気づくべきだった。

「ったく、はえーよ!」

雨を叱るようにして叫んだ丸井に、ちょっと笑いそうになったのは秘密だ。露骨にイライラした表情をする丸井に小さく溜息を吐くと、睨まれた。どうやら口元が緩んでいたらしい。雨に続いて、私まで怒られてしまった。それでも口元の笑みはまだ引っ込んでくれない。たまに、大人っぽい丸井が子供っぽくなるのが、なんとも愛らしいからだ。可愛いなあ、とこっそり思う。

「笑ってんじゃねー!」

丸井の手が、私の手を掴む。あ、という声を発する間もなく丸井が走り出す。とっさのことで、振り払うことさえ忘れた。丸井の体温が、私の中に流れてくるみたいだった。丸井の後ろで、こっそり笑う。私は、丸井の心地いい体温が好きだ。しばらく走ったところで(実際はそんなに走ってないけど、丸井の走る速さに合わせたからか、長距離を走ったような気分)、一軒の家へ流れ込むようにして入った。表札をちらりと見た限りでは、どうやらここは丸井さんのお宅らしい。って丸井の家かい!
肩で息をする私に、「上がって」と、すでに息を整えた丸井が促す。走っている間の疲れがここにきて一気に出たらしい。運動不足でした。苦しい! 何で丸井平気そうなの?! さすがテニス部‥‥。
息を吸うのさえ、勿体ないと思ってしまう。素直に深呼吸が出来ない。息を吸うと、丸井の匂いでいっぱいになってしまうから。だんだん、息を吐くことすら困難になってきた。吐くのも吸うのもなんだか申し訳なく思えてくる。どんだけ私は腰が低いんだ。アホかっ! 本気で苦しくなってきたので、思い切り酸素を肺に送りこむ。丸井の家なんだから当たり前なんだけど、家の中には丸井の匂いでいっぱいで、妙にどきどきしる。肺に吸い込んだ息ですら、二酸化炭素にして吐き出しちゃうのが嫌なくらい。こんなこと考えるなんて、バカみたいなんだけど。見方をかえれば気持ち悪いともとれる。丸井が、愛しすぎて困る。

‥‥‥‥は?

自分で思っといてなんだけど、愛しいって何? 丸井が愛しいって、は? なんで、なにが? はあああああ?! 待て、落ち着け私。今のはなしだ。言葉のあやというやつであって、雰囲気に飲まれただけだ。別に好きとか嫌いとかないし。可愛いとか、そういう意味だし。うんそうだ。きっとそれだわ。

「俺んちが近かったから走ってきたけど、時間平気?」

止むまでまだかかりそうだ、と心配そうに丸井が訊きながらタオルを差し出す。

「大丈夫だよ。ありがとう」

受け取ったタオルで眼鏡を拭く。それから額に張り付いた前髪と、額を拭う。私と違って丸井はかなり豪快に頭をごしごしと拭いていた。そんな濡れてないでしょうに!
丸井から受け取ったタオルが、(これまた当たり前なんだけど)丸井が普段使っているものだと思うと、急に特別なものに思えてくる。普段気にしないことに敏感になってしまう。人気のない空間が、余計に追い討ちをかけているようだった。そういえば、丸井のご家族はどこだろう?
家族以外の男の人と家で二人きりなんて、今まで経験したことがないからどうしたらいいのかわからない。別に恋人とかそんなんじゃないんだし、意識するのはおかしいんだけど。やっぱりそういうお年頃だし、ね。
‥‥‥ああああ、だめだ! なんかだめだ、なんか緊張してくる! 緊張する。いやしてます! やましい気持ちなんてないはずなのになっ! やっぱほら私も一応女の子だし、丸井だって男の子だし、家に二人だけって緊張しない方がおかしいよね。考えるのはよそう! 煩悩退散! 煩悩退散! 丸井退散んんん!
煩悩を追い払うように、丸井の真似して豪快にわしゃわしゃと頭を拭いてやる。それを見た丸井が「アフロかっ!」 とちゃかすように笑った。誰のせいだ、誰の!(私のせいだけど)
緊張していることを悟られたくなくて、誤魔化そうと 思い切りタオルを投げつけてやった。顔面直撃。「ぶっ!」とくぐもった声を上げながら仰け反る丸井に笑い声をもらせば、何すんだとチョップをくり出される。あ、緊張解れたかも。


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