黒曜石 | ナノ
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「それは、間違いだ」

驚愕した。自分でも驚くくらいその声は冷静かつ冷たく響いた。まるで私の声でないような、私の心の内を曝け出してしまうような言葉は、静かに姫ちゃんと私の間に響いた。私自身こんなに驚いているのだから、きっと姫ちゃんはもっと驚いたかもしれない。何しろ今まで、姫ちゃんを真っ向から否定を示した事がないから。提案を却下した事はあるけど、彼女の意見を覆すようなことはした事がない。自分が凌駕されるのがわかってたから。反論した事はなくて、それ以上に間違いだなんて言ったのは初めてかもしれない。

「確かに、いいところのない人を好きにならないかもしれない。そう思うのは勝手だ」
「おなまえ、…ちゃん?」
「だけど、好きになってもらって初めて自分を好きだと思えることもある」
「なに、それ…」
「好きになってもらって、人を好きになれる人だっているんだ」

私の意見は今度こそ姫ちゃんとは違った。淡々と口にする私に姫ちゃんはひどく驚愕している様子だった。私のこんな口調を聞いた事がなかったのかもしれない。私も本当の自分を隠して演じてきたのだから仕方ない。姫ちゃんの前で、頑張って笑って、明るい子を演じて、それを本当の自分のように見せてきた。本当の私は、ひどく残酷で、ひどく淡白した性格なんだ。ただ、その事をちょっと認めたくはないのだけれど。私がこんな性格になってしまったのも、きっと姫ちゃんのせいなんだろうな…。

「私は、自分が大嫌いだから」

でも、私は、だからって人を好きになれないとは思ってない。確かに姫ちゃんの事は嫌いで憎んでるけど、ちゃんと好きだって気持ちもあるんだ。その気持ちまで否定されてしまったようで、黙ってることが出来ない。私にだって、大切な人達がいるんだ。その気持ちまで否定することは出来ない。私を認めて、受け入れてくれた人達を私は誇りに思うから。だから、今度の姫ちゃんの考え方には納得できない。しちゃ、いけないとすら思う。自分でも本当に吃驚だ。姫ちゃんが、ルールだと思っていたのに。その法則を今私が自分の意思で破ろうとしてるなんて。

「なに…それ。変だよ、おかしい」

姫ちゃんも私と同じみたいだ。彼女も彼女なりに強い意思があるらしい。まあ、姫ちゃんはいつでも意思が強いけど。私と違って。おかしい、か。でもそれは――

「姫ちゃんだから言えることなんだよ」
「は、なん……」
「姫ちゃんは、みんなに必要とされてて、好かれてるから。嫌われ者の気持ちなんてわからないでしょ?」
「なっ…!」

かあ、と姫ちゃんの顔が赤くなる。悔しいのか、私にそんな事を言われて。怒ったのか、私が自分を貶したことが。自嘲的な笑いを残して姫ちゃんを見る。憤慨した姫ちゃんがバンと手を机について勢いよく立ち上がった。ああ、もう、どうしたらいいのだろう。自分と向き合う時も近いかもしれない。

「ちがうっ!」

声を荒げた姫ちゃんに、騒がしかった教室内が水を打ったように静かになった。一気に注目を浴びる事になる。姫ちゃんが声を荒げることなんてほんとにないから、私も吃驚だ。きっと周りにいた人達も驚いたんじゃないかな。

「何が違う? 私と姫ちゃんは正反対だ」

捉え方も違って当然じゃないか。姫ちゃんを見据えて、私も立ち上がる。姫ちゃんとは対照的にゆっくりとした動きだった。視界の端に黒崎君たちの姿と、姫ちゃんの背後に待機している有沢さん達を捉えた。今更になって足がすくむけど、ここで引くわけにはいかない。だって私にも意地があるから。姫ちゃんに負けないくらいの気持ちを今は持ててるから。

「姫ちゃんの意見を間違いだと言ったことは悪かった。だけど、それは姫ちゃんの気持ちの押し付けであって、私を従わせるのとは違うはずだ。お前の意見ばかり正当化しようとするな」

今度こそ姫ちゃんが切れてしまったようだ。彼女の目に涙が浮かぶ。彼女を泣かせたのも今回が初めてだ。姫ちゃんの考えも、自分の考えもわからなくなってきちゃった。自分を姫ちゃんに見せた結果がこれだ。こんなことなら演じたまま自分の気持ちを伝えた方がよかったな。まあ言いたいことは変わらないからどっちにしろ彼女を泣かせていたかもしれない。

「もし、私が姫ちゃんと対等の存在だったなら、きっと姫ちゃんと同じ考えだったと思う」

これは、ただの意地かもしれない。自分を正当化しようとしてるのは姫ちゃんじゃない。私の方だ。止められない。限界が来てしまったのか? なんてことないただの意見の食い違いでか。私の限界もあっけないものだ。姫ちゃんが、私を睨む。姫ちゃんに睨まれたのは初めてだ。喧嘩も普段しないから、というか避けていたからどうなるのか怖いけど、迎えてしまったものはもうしょうがないな。諦めよう。どうしても私もここは譲れそうにないから。自分をコントロールしなくちゃ。危ない。綱渡りをさせられているようだ。どんどん気持ちと言葉が悪い方に溢れてくる。言葉が、生まれてくる。隠し続けてきた本音が、どんどん外に出てきてしまいそうだ。今すぐ自分の首を締めてしまいたいくらいに。だけど、出来ない。体が動かない。口ばかりが働いてしまう。

「私はね、姫ちゃんがいなかったらきっと…姫ちゃんみたいに笑ってたし、もっと素直になれたし、苦しまなかった。比べられることだってなかったんだ。双子なんて関係のせいで私は姫ちゃんを恨むハメになったんだ」

これ以上声が出れば、言ってしまう。救いようのないあの言葉を。

――― 姫ちゃん‥‥

「姫ちゃんなんて、お姉ちゃん いらなかったっ…!」

一度否定したら、気持ちが堰をきったように溢れてきてしまったから困った。本当に困ったのは今この瞬間だ。言ってしまった、やってしまった。姫ちゃんが絶望したように私を見たあと、彼女の頬に涙が伝った。それを合図のように本格的に泣かれてしまう。
ひどく脱力感を覚えた。それと一緒に乾いた音が響く。現状を理解するのに時間はいらなかった。叩かれたのは勿論私だ。左頬がひりひりと痛んだ。

「つ……っ」

軽く息を吸い込んで、痛みと気持ちを落ち着かせるように働きかける。冷静にならなくては、と頭の中を空にするように正面を向けば肩で息をしている有沢さんが私を睨んでいた。その後ろには国枝さんと小川さんがいる。空手部の平手はやはり痛かった。

「アンタ、なんてこと言ってんだよ!」

叩かれた頬など気にせずに一つ笑って見せる。有沢さんが眉をしかめ、姫ちゃんが不安そうに眉を下げた。その隣で小川さんが姫ちゃんにハンカチを渡している。何も知らないくせに。今更私のことでとやかく言われたくないな。何も関係ないくせに。私がどんな思いで今までいたかなんて知らないくせに。私ばかりを悪者にして。なんて不公平なんだ。今までのやり取りをお前達はきいてたのか。それとも私の苦しみを理解できてるのか。姫ちゃんばっか幸せじゃないか。

「よかったね、色んな人に庇ってもらえて」

私には味方なんていないよ。ずっと私の味方でいてくれる人なんて、いない。今度こそ有沢さんがキレたらしく殺気にも似たものが向けられる。姫ちゃんのすすり泣く声が耳について痛かった。何故この人たちが怒るんだろうね、私はただ自分の気持ちを姉に伝えただけなのに。ほら、ね。自分の気持ちを押し通すとろくな事がないんだ。だって所詮私の感情なのだから。世界は必ず姫ちゃんを優先させる。

「嫌われ者は静かにしてればいいのに」

国枝さんがぼそりと呟く。やっぱりあなたもそう思ってるんじゃない。私が嫌われ者ってみんなわかってるじゃない。嫌われ者なりの意見を述べたまでなんだよ。やっぱり、ほら、私の考えは間違ってもおかしくもない。

「どうしてそうやって、他人の問題にわざわざ出て来るんですか?」

す、っと国枝さんに目を向けると、また何か言おうとした彼女の唇が固まるように動きをなくして小さい小さい悲鳴にも近い声を発した。あの動き、あの反応を私は知ってる。おばさん達と、私を怖がる人達と同じだ。怖がってる。私を。瞳の見えないこの黒い目に恐怖を抱かせた。


『近づかないで』
『あなたが居るから』
『恐ろしい子』
『あなたなんて』
『生まれてこなければよかったのに』
『何の感情も映さない目』
『恨んでいるんでしょ』

ねぇ…どうして私は殴られたの?


デジャヴというか、フラッシュバックというか。いつか見たあの日の夢、懐かしい記憶。私が、忘れたい記憶。その後必ず、短い悲鳴と、私を殴るための手が下りてくる。目の前が真っ暗に染まっていく……また。
ハッとして我に返る。またやってしまった。怖がらせてしまった。感情が沈むといつもそうだ。余計に怖がらせてしまう。瞳が見えないから、目が死んでいるように見えて怖いのかもしれない。黒くて、黒い、どこまでも黒い目をみんな怖がってしまう。感情がコントロールできないと何故か黒が深くなっていくような気がする。もう、いいや。めんどくさい。今から何を言ったって私の言葉は届いてはくれないんだ。遠い遠い昔にそのことは実証されてるし、深く私の心に残ってる。もう、私の声は届いてくれない。

有沢さんと姫ちゃんを一瞥して何もなかったように教室を出る。黒崎くん達とすれ違うとき、一瞬足を止めそうになった。鼻の奥がツンとする。泣いても、泣いても、涙を受け止めてくれる人はもういない。やっぱり、みんな姫ちゃんがいいよね。あんな事言っちゃったんだもん。みんなの前で。私が悪者で当然だ。自分の意見を出したら、本当に、私が好きな人達を失ってしまった。ほら、やっぱり彼女はいつも正しかったんだ。思いたくないけど、痛感してしまう。私は間違ってないはずだったのに、世界が間違いだと私を責めた。


間違ってないと思いたいのに、
自業自得の結果