黒曜石 | ナノ
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カラーン、店のドアが小気味良い音をたてながら開く。来客の知らせに店員は使い慣れたように愛想笑いを浮かべて「いらっしゃいませー」と地声よりも若干高い声で挨拶する。大抵の客はそれに対して返事なんてしない。その事について店員側もどうこうする素振りは見せず、自分に課せられた役割を果たすべく仕事に戻っていくのだ。それは、本棚の乱れを直したり、お客の動向をそれとなく見たり、とまぁ作業自体はシンプルな物だ。話は戻り、普段なら「いらっしゃいませ」の掛け声に返事なんてもどっては来ないのだ、普通なら。今回は普通ではなかったという事になる。

「あれ、おなまえ?」驚いたような顔で挨拶に返した男に、おなまえの慣れた愛想笑いにヒビが入る。声をかけた男は気にする事もなくカウンターまでやってくる。店内には2人だけだった。こじんまりとした店の中に男の足音はやけに大きく床を響かせていた。
「よう」と彼女の目の前で軽く右手をあげながら挨拶すると、今まであたふたとしていたおなまえの目が思い出したように一瞬見開かれる。効果音をつけるとしたら“はっ”としたような感じだ。ややあっておなまえが口を開く。

「いらっしゃいませぇー」
「いや何でだよ。それ2回目なんですけど?」

ボケをかましたおなまえにすかさず黒崎のツッコミが入る。おなまえはまだヒビの入った愛想笑いを続けていた。「ごゆっくりどぉぞー」本屋ではあまり使われない言葉にも黒崎の鋭いツッコミが入った。

本を漁りながら「ここでバイトしてたんだな」 と声を掛けた黒崎に対し「うん、あんまり知ってる人こないから」 と淡々と返すおなまえであったが、決して不機嫌だったわけじゃない。これが彼女の素なのだ。あっちが状況や雰囲気に慣れれば明るくなったり色々な表情を見せるけど、本来の彼女は落ち着いているというかとにかく淡々というか淡白だった。別に物事に関心がないわけじゃなくて、彼女の本来の性格が静かだったというだけの話である。性質というのが正しいか。

「それに、ここ最近うちの生徒とか見かけないし」と笑うおなまえに黒崎は、近くにでかい本屋があるからなぁ、と 失礼にもとれる事をぼんやり考えた。こじんまりとしたこっちの本屋は、静かで落ち着くと黒崎は目を細めた。そんな雰囲気を出す空間を選ぶのは確かに、人が多い所が苦手なおなまえらしいと納得する。実際はどうなのか彼はおなまえ自身ではないのでわからないが(おなまえに似合う)と自分も納得させるのであった。

「おなまえ、参考書どれ使ってる?」

カウンターでまったりくつろいでいたおなまえに参考までにと声を掛ける。客の前でいいのかとも思ったが、どうせ2人だけだしいいか、と敢えて口には出さなかった。どうやら彼は参考書を買いに来たようだ。どうして近くにあるという、でかい方の店に行かなかったのか。というツッコミはもろもろの事情につきカットして頂きたい所存にございます。

「どれ?」
「数学」

んー、と唸った後おなまえは本棚に手を伸ばして一冊の本を黒崎に渡した。「私はこれ使ってる、かな」 どうして“かな”なんて曖昧な言葉が続くのかと疑問には思ったがここも敢えて口を挟まずに「へぇー…どうだった?」 参考に、と感想を求めた。おなまえが言葉を濁らせた。

「参考にならなくて申し訳ないんだけど、まだ2ページも進んでなくて…」

しゅんと困ったように視線を泳がせ、両手の人差し指をちょんとくっつけたり離したりを繰り返した。困ったときの一般的な動作だ。進んでない。その一言に黒崎は盛大に溜息を吐き出した。「うっ」おなまえの声が詰る。

「やってる暇ねーんだろ?」
「…暇が、ないわけじゃなく…」

バイトなどで忙しい彼女が、勉強にまで回せる体力があるはずなかった。両立とは非常に難しい事である。

「おなまえ、いつウチ来るんだっけか」
「えー、っと…確か来週?」


黒崎氏は家庭教師
勉強会が始まる