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「たつき、ちゃん…」 「……っ」 ドクン、心臓が飛び跳ねる。 「あー織姫、居た居たぁー!どーこ行ってたのよ」 「ヒメー、探したんだからねぇー!越智先生が呼んでたよー」 入ってきたのは、有沢さんと本匠さん。すぐ側まで来ると、有沢さんは姫ちゃんが座っている椅子の背もたれに体重をかけながら、「おはよー、今日早いじゃん」と挨拶を交わす。本匠さんに至っては挨拶もそこそこに目にも留まらぬ速さとも呼べる動きで姫ちゃんに抱きついている。あー、タコってあんな感じ? 「…あ…」 また、この人達に私は映らない。一気に、落ちていく気持ち。黒い物が渦巻いて取り込んでいく。声を掛ける、掛けられない。隙間なんてない。そんな空気が取り巻いてて、息が詰る。 (決めたくせに…) 私はまだ、弱くて甘えたなままだ。ぎゅっと、嫌に汗を掻く手を爪が食い込むくらい、強く強く握る。今は、この痛みだけが私の存在を教えてくれた。自分の席に戻ろうか、教室から出てしまおうか。そう思った時、…… 「あれ、アンタ」 「え、…?」 初めてかもしれない、有沢さんが私を捉える。それに倣い本匠さんの目にも私が映る。…なんて間抜けな顔をしているんだろう。彼女の瞳に映る自分に少し笑えた。気付いてもらえた、それが嬉しくて複雑で、なんとも微妙な表情の自分が映っている。 「あ、のっ」 チャンスだよね。不安もあれば希望もあるんだ。今は…希望。 「アンタ、居たんだ」 「…えっ」 鈍器で頭を殴られたみたい、眩暈がする。痛い。殴られたというより、もうめった打ちにされて全身激痛が走ってるみたい。どこが痛いかなんて分からなくなる。 「私…い、っ」 行くね、って言おうとした。でもどうしても声が震えてしまって、逃げるように走り出していた。頭より体が先に動いて、自分が走っている事に気付いたのは軽く横腹にジンとした痛みが内側から来たとき。あれ、この馬鹿、お前…出てくんなよ。涙なんて今はお呼びじゃないのよ。…泣くな…! 「…泣くな…ッ!」 私は、あそこに居たはずなのに、それすら間違いだったみたいで。ずっと…居たのに。 “アンタ居たの” 「…くな、ッ!」 思い出したくない言葉が何十にもなって頭の中を掻きまわす。どうして、涙は出てくるの…。泣いたって仕方ないのに…。何が希望だ。自分が惨めになっただけ。絶望じゃないか。笑っちゃう。恥ずかしい。どうして、逃げてるんだ。涙は出てくるんだ、そんな事を気にするより、悔しさが大きくて。ハッキリと言葉にされた事が、形になって私に届いたことが…こんなに、 「…苦しい…」 何も考えず、先走る気持ちが足を動かしていく。私って意外と足速いんだ。なんて考えながら、目に溜まって流れそうな水分を乱暴に拭う。少し頭冷えてきた、かも。あれ? 気付いた時既に遅し。踏み出した足が、階段に気付かずそのまま前に進んで、足元が浮く。気持ち悪い、浮遊感。 「ぁ、ッ…!」 息が出来なくて、何が起こってるか分からなくて、ああ、落ちるのかな、ってそれだけ頭に情報が回って…。 「うおあああ!!?」 「ッひ、…あうわぁぁあっ…!?」 落ちた、のに、痛みが来なくて。落ちてるのに、暖かくて。瞑ってしまっていた目を開けば明るいオレンジが首のすぐ隣にあって、目の前には白が広がっていて、頭はぐっと後ろから押さえられてるみたいで動かせない。あれ、支えられてる…? ドシン、地に着くと来る衝撃派。私よりも、二人分の体重と背中を強く打った… 「黒崎君…くっ」 「ってー、っああぶねーじゃねえか!」 「ひぃぃごめんなさい!!」 痛いと言いながら上半身をゆっくり起こして、焦点を合わせるとガシリと肩を掴まれ一喝される。それから安堵したように表情を崩して、怒鳴って悪かった。って頭に手が降りてきた。 「…どっか、いてーとこ無いのかよ」 「私より黒崎君が…!」 「俺は平気。…あー、井上?」 「…はい?」 「あの、そのーだな、…退いてくれるか?」 「……うわわわごめ、ごめんなさい! おおお重いですよね! あああなん、ありが、ありがとととう!!」 微かに頬を染めながら肩に置かれていた手を下ろしす黒崎君に、何故かこちらまで頬に、いやそれどころか顔や耳にまで熱が集まる。傍から見れば私が黒崎君を押し倒している様な体制に慌てて立ち上がると、そのままふらついてその場に尻餅をついてしまった。はは、恥ずかしい…! なんていうか、ほっとしたような、恥ずかしいような、未だに階段から落ちたときの恐怖とか、ごちゃごちゃない交ぜになって、また不安になって、…情けない。そう思ったら吃驚した拍子に止まったはずの涙がまた目頭に現れて流れた。 「井上…?」 見られた、最悪だ、黒崎君を困らせたいわけじゃないのに。目の前に立っている黒崎君の顔が歪んだ。 「どっか、痛いのか?」 眉を下げながら聞いてくる黒崎君に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。ほんの少し、彼が恐いと思った。いつもより低い声で、目が、私を真っ直ぐに見ていたから。 「なんでもない」 搾り出した言葉は可愛くない一言に震えた声。このまままた逃げてしまおうか。それこそ足に力が入らなくて叶わない。入れてるはずなのに、力を入れようとすれば、それは震えへと変わる。逃げたい。逃げちゃだめだ。でも、人と、黒崎君と向き合う勇気が私には無いよ。 “居たんだ” 居たよ。居ないと思ってたなら、今更気付かないでよ。…気付いて欲しかったのに。気付いて欲しかったはずなのに、いざとなって矛盾が生じる。 あんな形で私を映してもらいたかった訳じゃなかった。受け入れて欲しかっただけなのに、存在を否定された気がした。居ても居なくても変わらない私。 なのに、どうして貴方はそんな目で私を見ているの? 「おなまえ、」 同情、心配。願わくば後者だったら嬉しい。でも、どちらでもいい、私へ向ける眼差しが同情のそれであってもその瞳にすがってしまいたかった。いつも自分に甘えるみたいに彼に甘えてしまいたいと思った。本当にバカじゃないか。結局のところ私は何にも変われていなかったんだ。主張なんてしてなかった。私の存在も表せてなかった。私が悪いのは分かってる。何もしなかったもの。気付いて欲しいのに、逃げてる矛盾。苦しい悲しい、私が軽々しく使っていい言葉じゃないのに…。苦しいとか寂しいとか悲しいとか自分に言い聞かせていた。 「おなまえ」 二度目に名前を呼ばれたとき、今度は恐いなんて気持ちはなくて、どうしたらいいのか分からないって気持ちが大きくなった、気付いたら謝ってた。変なの。 「ごめん、」 どうして、流れた涙を拭ってくれるの、そんな風に私を呼ぶの。私の事なんて、 「…ほっといて…」 何も考えられなくなるまで、泣きたかった。泣いて何かが解決するわけじゃない。でも思い切り泣いてしまいたかった。泣いて、走って、忘れてしまいたい。繰り返される言葉を忘れてしまいたいのに。彼女の、私を否定するあの目を、嘲笑う様な眼差しを、弱い私と一緒に記憶の奥底に沈めてしまいたい。目の前から色が無くなったあの感覚を思い出したくないのに。こだまする。 よみがえる。漸くじっとしてたら、身体へ伝わる震えは止まっていて、彼の隙を突いて走り出す。臆病者。逃げることしか能がないんだ。弱虫。すぐに強くなれるほど私は器用になんて出来てない。 酸素が欲しい、足が上手く動かない。足の速さも体力も黒崎君に敵うはずもなく、あっけなく捕まる。ぐん、と後方に引っ張られ、後ろから来た彼の胸板に背中を預ける形になる。力強い手は未だ私の腕を捕らえてたけど、そのまま腕は私の両肩に添えられた。 「…逃げんな」 耳元で低く言われた一言が身体全身を凌駕する。逃げられない、ビクンと身体が強張った。 背中から、心臓の音が微かに伝る 彼なりの境界線 |