走る | ナノ
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・・・・・ 75・・

つつつ、と頬から顎に向かって汗が伝った。気がした。そんな気がするだけで実際に汗なんて流れていなかった。
けれど、目の前で繰り広げられる恐ろしい光景を見守りながら固く握った手にはじわりと汗が滲んでいる。目の前が赤色に染まり、断末魔が響き渡った。汗でぐっしょりと濡れた拳を開いて目を覆う。本当は耳を塞ぎたかったけれど、腕があと2本足りなかった。何で私の腕って2本しかないんだろう!?と嘆いたところで目を瞑れば耳も塞げることに気がついた。
指の間に作った隙間から再び画面に集中する。何で私、精市くんとソファに並んでゾンビ映画なんて見てるんだろう。怖すぎる。
ふうふうと肩で息をする私を見て精市くんが笑った。何で精市くんそんな平気そうな顔してるの?あれ?血とか苦手って言ってたよね。ゾンビ映画とか無理とか言ってたよね?あれ?余裕過ぎない?そもそも何でよりによってゾンビ映画なんて見ることになったんだっけ。しかもこんな雷鳴ってる日に。目の前はグロッキー、後ろからは雷鳴って攻められすぎじゃない?しかも隣には精市くんって。心臓持たなくない?

「精市くんこーゆーのダメって言ってたのになんか余裕じゃない?」
「そうなんだけど…この映画あんまりグロテスクなシーンないからかな?」

精市くんからテレビへ再び視線を戻す。そういえば、面白い番組ないかなってチャンネル回してたらたまたま今流れてるゾンビ映画がやってて、精市くんがこういうの苦手なんだよねって言うから。いつもからかわれて遊ばれてる仕返しのつもりで、観たいと私から提案したんだった。性格悪すぎる。これはきっと天罰に違いない。精市くんごめん私が最低だった。

「なまえさんが怖がり過ぎて怖いの半減したかも」

はい!全部私のせい!自業自得!

「観るのやめようか?他の番組にする?」
「……ううん、続きが気になるからこのまま観る」

精市くんが平気なら、そう付け加えると「そんなに怖いなら見なければいいのに」って笑いながら手にしたリモコンをテーブルの上に置いた。いやだってこんな中盤過ぎたとこまで見ちゃったら最後どうなるのか気になっちゃう。


いつでも耳を覆えるように、両手を頬の位置にスタンバイする。主人公の背後にゾンビが迫っている。思わず後ろ!後ろ!何で気付かないの!?と聞こえないのに叫びたくなってしまった。画面の中の主人公が振り向いた瞬間、背後が光ったかと思うと身体が揺れるほどの轟音が響き、辺りが一瞬の内に真っ暗闇へと変わる。

「きゃーーー!」

数秒置いて、雷が落ちたのと一緒に停電したと理解する。すっごくいいところだったのに!主人公どうなったんだろう?

「雷、結構近くに落ちたみたいだね」
「もう無理もう無理!驚きすぎて心臓止まってると思う!」
「大丈夫だよちゃんと動いてるから」
「あっ、ケータイ部屋だ!」
「ん?」

暗闇から抜け出したくてケータイの明かりを頼ろうとしたのに、部屋で充電しているんだった。こんな時に!タイミング!今日色々タイミング悪いよホントに!
窓を叩いていた雨や風の音がさらに大きくなった気がする。部屋の中も外も暗いせいで聴覚げ研ぎ澄まされたのかさっきまで気にならなかった風の音が怖い。窓をそのまま割ってしまうんじゃないか、そんなことを考えながらケータイを部屋に取りに行こうと立ち上がる。一瞬の内に自分のキャパシティを超える出来事が一気に起こってパニックになっていた。
目も慣れていないし、真っ暗で何がどこにあるのか解らない。そんな中で足を踏み出したばっかりに、思い切り何かに足を取られて転倒しそうになってしまった。

「なまえさん落ち着いて。大丈夫だから。目が慣れるまでじっとしてよう」

転倒しそうになった私を支えてくれたのは精市くんだった。おそらく進行方向にあった精市くんの脚にぶつかってしまったのだろう。

「びっくりしたね」
「…うん…」

精市くんが安心させるように声をかけてくれる。窓の向こうでは未だにゴロゴロと雲が唸っている音が聞こえる。
ようやく目が暗闇に慣れてきた。もしかして、まさか、とは思ったけれど。自分の体制を見て、暗くてよかったと心底思った。
転びそうになって腕を引かれた流れでソファに座る精市くんの上に覆いかぶさるような恰好になっていた。左手が精市くんの肩を掴み、もう片方の手はバランスを取るようにソファの背もたれに置かれていた。
突然の停電にパニクって転びそうになっただけでも恰好悪いのに、こんな恥ずかしい体制になってしまって、顔に熱が集中する。
同じように精市くんも目が慣れてきたのか、至近距離にあった私の顔に目を見開いた。


「襲わないでって言ったのに」
「…っ…!」

自分でもこの体制は…と思っていたとこに指摘され、カッと顔中が熱くなってしまう。

「こんな時にこんな冗談、意地悪がすぎた」

「ごめんね」と精市くんが困ったように笑う。いたたまれなくなって両腕をさっと自分の方へ戻す。
「こっちこそごめんなさい!」そう言いたかったのに、口から出たのは「うわっ!?」という短い叫びだった。
立ち上がろうとしたところに腕を引っ張られ、そのまま体が精市くんの上に倒れ込む。勿論腕を引っ張ったのは目の前の精市くんしかいない。精市くんの両手が背中に回る。私の頭の中ではビックリマークとハテナマークがぐるぐると回る。

「ごめん」そう呟いた精市くんが背中に回した手に力を込める。力が込められたせいでさっきより精市くんと近くなる。その”ごめん”は何のごめんなんだろうか。

「本当は映画、怖かったんだ」
「…え、」
「暗いのも怖いんだ」

だから目が慣れるまでもう少しこうしてて、私の肩に額を預けた精市くんが言う。
うそ、うそ、うそ。だって、精市くん、もう目は慣れてるのに。私のこと見えてるのに。どこまでが本当なの?全部嘘なの?それとも全部本当なの?精市くんのことが解らなくて、考えても解らないから、怖いという彼の言葉を信じることにした。普段よりもずっと早くなった心臓の音が聞こえてしまわないか心配しつつ、おずおずと精市くんの頭に腕を回して抱き込む。シャンプーの甘い匂いが鼻をくすぐる。同じ物を使っているはずなのに、精市くんの匂いはわたしの匂いとは全然違う気がした。







本当は、たった数十秒だったのかもしれない。体感的には5分は軽く過ぎていたと思う。しばらく無言が続いたあと、精市くんが「あ」と声を出した。その声を合図に腕をほどき身体を離す。

「俺のケータイここにあるんだった」

私が精市くんの上から飛び降り距離を取ったのと、彼がケータイのライトを付けたのどっちが速かっただろう。


「な、な、なっ!?」
「ブレーカー上げてくるね」

頭が追い付かず混乱している私をよそに涼しい顔をした精市くんが、私の傍をすり抜けて部屋を出て行こうとする。え、ケータイ持ってたの?
闇に目が慣れたからといって、部屋に一人で残されるのはさすがに怖い。

「ままま待って、一緒に行く!一人にしないで怖いから!」
「ああ、そういえばさっきの映画にもこんなシーンあったよね。主人公が暗い部屋に一人で残されて、」
「いやぁー!こんな時に言わないで!」
「その後ろから…」
「やめて!絶対夢に見る!」



(優しい夢を所望します)
嘘つき虫