走る | ナノ
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・・・・・ 73・・

ゴロゴロゴロ………

猫が喉を鳴らしている訳ではない。空一面に、どこまでも続いていそうな黒い雲がゴロゴロとわたし達の遥か上で鳴いたのだ。時折不気味に唸る音に交ざって光る空をカーテンの隙間から覗く。胸の奥をキュッと捕まれたような気がして、心臓が痛くなった。
風も強くなって来たから雨戸を閉めようと精市くんが外へ出る。気を付けてと声をかけたところで家の電話が鳴った。

「ごめん、出てくれる?」

精市くんに頼まれ、電話が切れてしまう前に急いで受話器を取る。受話器を取ってから何て切り出していいか一瞬迷う。口にする事に若干戸惑いを覚えながらもしもしと切り出した。

「…幸村ですけど」

自分で名乗っておきながらあれだが、胸の奥がむずむずする。こんな時だというのに、こんな些細なことだというのに頬に軽く熱が集まる。幸村じゃないんですけど!幸村じゃないんですけど!!でもここ幸村家なので!!なんて自分に意味のわからない言い訳をしつつ電話の相手が話し出すのを待った。




電話でのやりとりを終えてリビングへ戻ると、雨戸を閉め終わった精市くんが濡れた前髪をかきあげていた。

「あ、タオル持って来ようか?」
「いや、大丈夫そんなに濡れてないから。それより電話誰からだった?」

髪が少し濡れた精市くんにドキドキしながら、それを表に出さないようになるべく平然を装って先ほどかかってきた電話の内容を伝えることに集中した。意識しない、意識しない。事務的に、いつも通りに。

「ゆんちゃんだったんだけど、天気がひどいからこのまま友達のお家に泊めてもらうことになったんだって」

電話の相手は精市くんの妹のゆんちゃんだった。友達と宿題をするからと朝から出かけて行ったのだが、昼過ぎから天気が崩れだし、だんだんと本降りになった今、強い風に雷まで鳴り始めてしまった。この状況で外に出るのはさすがに危険……もしかしたら飛んできた看板とかが頭にぶつかってくるかもしれない。危ない、死んじゃう。「そうなんだ」と何事もないように短く返した精市くんが、「そうだった」と思い出したように携帯を取り出した。

「今さっき母さんからも連絡があって、向こうも電車が動かないらしくて今夜は父さんの所にそのまま泊まるって」

さらっと精市くんが、携帯の画面を見ながら言う。精市くんの言葉を少しずつ自分の中に落としていく。平静を装いながら「そうなんだ」と返す。少し言葉がつまったが気付かれなかっただろうか。どこかそわそわする気持ちを顔に出すまいと努力したら、隠しきれなかったそわそわが手元に出てきてしまった。指先同士ががイソギンチャクのようにウネウネと動き絡まる。

「まだ夕飯の時間には早いけど、どうしようか」
「んん!?」
「きりがいいところまで終わらせちゃう?」

そう言って精市くんが目を向けたのは、先ほどまで二人で取りかかっていた夏休みの宿題だった。テーブルに広げられたノートを見る。ちょっと気持ちを落ち着かせたいかも。

「もう少しで今のところ終わりそうだから、終わらせちゃおうかな」

合宿前になんとか粘って取り付けた、精市くんに夏休みの宿題を見てもらうという約束を実行したのが今日だった。精市くんの教え方はとても解りやすく、自分では中々解けなかった問題達が弱点を突かれたように次々と倒されていった。――― あの電話がかかってくるまでは集中出来ていたはずなのに。今日はこれからずっと精市くんと二人きりだと思うと必死で掻き集めた集中力が意図も容易く散っていく。
いやでもお互い部屋に戻ってしまえばいつも通りか。そうだ何も一晩中一緒にいるわけじゃない、まして同じ部屋で、布団で寝るわけじゃないのだ。
最後の問題を睨むと自然とシャーペンを握る手に力が入った。そうだ、何を意識することがあるというのだ。


最後の一問をなんとか解き終え、ノートを閉じる。ふう、と一息吐く。んん、と両手を上に伸ばしていると、お疲れ様の声と一緒に目の前に紅茶が差し出された。先に課題を終わらせていた精市くんが、いれてくれた紅茶…そしてティーカップ片手に微笑む精市くん………ごくり、小さく喉が鳴る。戻ってきた平穏が再び乱れ始める。背後でゴロゴロと唸る音がまるで自分の心の中のようだと思った。今にもけたたましい音をたてて爆発しちゃうんじゃないか、そんな気になってくる。

だってよく考えたら、同じ部屋にいなくても、同じ布団に入っているわけじゃないにしても。隣の部屋には精市くんがいるわけだよ。同じ屋根の下、隣り合わせの部屋、壁一枚隔てた向こうに好きな人がいるわけだ。壁に耳を押しつけて、耳を澄ませば足音だって聞こえてしまうかもしれない。いやそんなことはさすがにしないけれども。
壁に隣接したベッドの向こうには精市くんのベッドがあるわけで、もし私が壁側を向いていたとして、精市くんも壁側を向いてたりしたら、それはもう向かい合って寝てる、すなわち同じ布団で寝てるも同意。………いやいやいやいや、飛躍しすぎだろさすがにちょっと無理があるだろ。次から次へと襲い来る、脳内のあれやこれやに翻弄されつつ落ち着かない手でティーカップを口へ運ぶ。落ち着こう。冷静になれ自分。妄想のレベルが低すぎる。
すっきりとした香りが鼻孔をくすぐり、本来の自分が戻りつつある瞬間、―――― 背後から雷が落ちた音がした。

「二人きりだからって襲わないでね」



(脳内に雷鳴が鳴り響く)
周章狼狽