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・・・・・ 70・・ この感じ、久々だな。なんてどこか他人事のように頭の隅で思った。 目の前で笑顔を作る彼の口元は綺麗な三日月を描いているのに、私に向けるその目はひどく冷たい。笑っているのに、ちっとも楽しそうでも嬉しそうでもないその顔を見るのは久しぶりだった。私の己惚れでなければ。 「ねえ」そう呼び止められただけなのに、じわりと微かに背中に汗が浮かぶ。 「何でしょう?」 試合を終えた精市くんがラケットを片手に近付いてくる。なるべく目で追わないように意識したつもりだし、気づいたら視界に入ってたりしたけどすぐに目を逸らしたと思う。試合結果は精市くんの勝利。彼が不機嫌になる要素をあれこれ考えてみたけど解らない。テニスのことなんててんで素人な私から見てもいい試合だったと思う。のだが、やはり当人からしたら納得のいかない部分があったのか。その八つ当たりに来たとか…ってそんなこと精市くんがするわけ、ない…ない、よね? 精市くんの精神的サンドバッグにされてるわけないよね。そう信じたい。 それなら他に彼を不機嫌にするものといえば…私の行動か。球拾いちゃんとしろとかもっとちゃんと選手に気配りしろとかそういう類か、あるいは今朝の朝ご飯が気に入らなかったのか、もしくはドリンクの味が…… 「ああ、ごめんね!全然気が付かなくて!」 精市くんは試合の直後だ。喉が渇いているんだ。自分の観察眼のなさに吃驚だ。慌ててドリンクを渡すと精市くんはそれを数秒見つめた後、口もつけないまま手を下ろした。精市くんが「あ」と口を開いてすぐに閉じた。何を言いかけたのか解らず首を傾げると、小さな声でありがとうと言われる。 「いえいえ、すぐに渡しに行かなくてごめんね」 精市くんが違う、と首を横に振った。 「ドリンクじゃなくて?」 「なまえさんに用があったんだよ」 少しだけ苛立ったように話を切り出す精市くんに思わず身構える。少しずつ距離を詰めてくる精市くんから逃れるように後退りしていたら、腰のあたりが水道の縁に当たって逃げ道がなくなってしまった。いつもよりも低く冷たい声が、追い詰めるように私の耳に入り込んでくる。 私なにか精市くんを怒らせることしたっけ。必死で考えてみるけどこれといって思いつくものはなかった。 「お、怒って、る?」 「…やだなあなまえさんには俺が怒ってるように見えるのかい?」 見えますとも…!喉元まで出かかった言葉は結局外に出ていくことはなかった。素直に怒ってるよねとか言ったら余計ややこしいことになることは精市くんと過ごしてきたこの数か月で学んだのだ。とはいえ、怒ってないとも答えられなかった。 「ちょっと聞きたいことがあっただけなんだけど」 「………え…?」 思ってもいなかった言葉に身体から力が抜けそうになる。じゃあ、もしかして本当に、怒ってなかったりして…? 不機嫌だと感じたのも私の思い過ごしだったのか。精市くんに対して失礼だったな。 水道の縁に腰かける形になった私の身体を覆うように精市くんが目の前に立ち、ボトルを水道の流しに置いた精市くんは空いたその手を私の隣へ伸ばす。完全にに退路を絶たれてしまった。 「仲いいなとは思ってたけど、なまえさんって跡部と付き合ってるの?」 「は!?」 こつんと額に精市くんの額がぶつかる。私を試すように見るその目はやはり冷たい。やっぱり精市くん怒ってない?やっぱ怒ってらっしゃいますよね。ていうか、おでこくっついてて顔近いし、緊張しすぎて目が回りそう。 「なまえさんはとても頑張ってくれてると思うよ?」 「あ、ありがとう…?」 「けど、合宿中にいちゃつくのってどうなのかなあ」 ………ん? 精市くん、さっき、なんて言った? 私が跡部と付き合ってるって、訊いた? 「跡部と私が付き合ってると思ってる?」 精市くんにあらぬ誤解をされている、そう思うと焦りからか悔しさからか声が震えてしまった。なんで、なんで、なんでそんなこと訊くの? 「あれ、違った?」 「違うよ!」 目の前にある精市くんの身体を力いっぱい押し返し、お腹に力を入れて否定の言葉を発する。思ったよりも大きな声が出て自分で驚いてしまった。精市くんも突然大声を出したから驚いた風に目を見開いている。それも一瞬で、次の瞬間には意地悪く口角を上げ、冷ややかな眼で私を見据えていた。どうして精市くんがそう思ったのか、いちゃつくって何?とか言いたいことがあるのに、その眼に言葉が詰まってしまう。力いっぱいの否定も精市くんの「ふぅん」の一言で片付けられてしまった。ふぅん、って何ですか。興味まるでありませんみたいな返事されたら逆に困るんですけど。何がどう困るか知らないけど。 「なまえさんって付き合ってもいない奴とキスできる人だったんだ」 「………は?」 「一昨日、見ちゃったんだよね。食堂で跡部にキスされてるとこ。昨日も跡部の隣で寝てたでしょ?」 身体預けて、そう付け加えた精市くんの声にドキリと心臓が跳ね上がった。心当たりがありまくる。誤解してるけど。 「あ、あ…あん、の…」 あんの、ホクロ 紛らわしいことしてんじゃねー! 「してない!あれは、そう見えただけで!キスなんて……」 キスはしてない。そこは全否定できる。けど、跡部に寄りかかって寝てしまったのは事実だ。それが精市くんの目にどう映ったかは分からないけど、見られていた事実に顔が熱くなってくる。まさか、見られてたなんて! 「そ、それに私、好きな人いるし!だから跡部とは何でもないよ!」 言って、さらに顔が熱くなる。な、な、なに精市くん相手にカミングアウトしてんの!? 出てしまった言葉は回収できないのに、慌てて口元を手で覆う。これ以上何か言おうものならボロ出しまくって、私が好きなのが精市くんだってバレちゃうかもしれない。もう、貝になりたい、切実に! 「ふーん、好きな人いるんだ?」 「……っ…」 これ以上追求しないでくださいお願いします。口元に力を込めたままで小さく首を縦に振る。怖くて精市くんの顔が見れません。 「跡部じゃないんでしょ?」 口元を覆う手をどかされ、顔を覗き込まれる。熱い、近い、熱い。掴まれた手首から熱が伝わってしまいそう。私を見る眼は睨むように細められているのに、その視線にすら心拍数が上がってしまうのだから困る。末期だ。跡部の言う通り私、ドМだったのかな。ぜったい違うと思いたい。 「ちがうよ…」 「でもそれって、」 浮気じゃないの?精市くんの言葉に、弾かれたように顔を上げる。 「うわ、き…?」 「だってそうでしょ。好きでもない異性の隣で無防備に寝たりさ。キスしてないって言うのも本当なんだか」 「それは、」 「あーあ、俺だったら嫌だけどな。そうやってすぐ隙見せる奴」 掴まれていた手首が解放され、力なく腕が垂れる。じわじわと視界の輪郭が歪んでいく。跡部への怒りとか一瞬で地平線の彼方だ。 「そういや仁王にもキスされたことあったよね」 精市くんから放たれる言葉が痛い。まるでお前はなしだと全否定されているようだ。まるで、じゃなくて、もしかしたら本気で思ったのかもしれない。精市くんの眼は私をまっすぐに見据えている。お前が俺を好きとか勘弁してくれよ、そう言っているような気がして精市くんから目を逸らした。 悲しみと恥ずかしさがごちゃごちゃに絡まっていく。そんな気持ちを表すように雫が頬を伝い地面に落ちた。 羞恥の余り全身が一気に熱くなる。私、精市くんに、幻滅されたんだ。軽蔑されたんだ。 跡部とのことだって、仁王くんとのことだって、理由はなんにせよ精市くんの言う通りなのかもしれない。隙を見せるというのがどういうことかよく解らないが、私の行動が結果として精市くんを幻滅させてしまったのだ。 下を向いたままの私の左手が再び精市くんによって拘束され、そのまま引き寄せられ彼の胸に顔を押し付けるような体制になる。手首を掴んでいた手が背中に回ってきて一瞬のうちに抱き締められていた。 「ちょ、は、はなしてっ…!」 胸元に手を置き力いっぱい押し返そうとすると、背中に回っている手に倍力を込められて苦しいくらいに腕の中に閉じ込められてしまう。 「精市くんってば!」 どうしてこんなことになってるんだろう、精市くんの行動が解らない。涙も引っ込んでしまった。 なんとか拘束から逃れようと拘束から逃れようと身をよじろうと試みる。そんな私を嘲笑うように精市くんが再び手に力を込めた。 「なッ…!」 リップ音が耳元でダイレクトに響く。耳元にキスされたのだと理解するのと同時に私の中で時間が止まる。身体の動きもぴたりと止まってしまった。ついでに思考回路も止まった。 「………え、…?」 キャパシティを大幅に振り切って、状況処理が追い付かない。今、何が起こったんだっけ?ぼんやりする頭のまま視線を上げると、意地悪い笑みを浮かべた精市くんと目が合った。思ったよりも近くにあった精市くんの顔にいよいよ頭がショートしそうだ。いっそのことこのままショートしてしまいたい。心の中に出来た痛みごと忘れたい、消えてしまいたい。そんな甘いことを考え出す私を知ってか知らずか、「簡単にこういうことされる所がダメなんだろ」そう叱るように額を精市くんに小突かれる。 それ、あなたが言いますか。 「また浮気しちゃったね」 私の目元に残った涙を拭うように一撫でして、満足気にそう云い放った精市くんは、へなへなと力なくその場に座り込む私を残し、一人コートに戻っていってしまった。 「浮気じゃ、ないんですけど…」 もうなにがなんだか解らないし、精市くんがどうしたいのかも、行動の理由も解らない、喜んでいいのか悲しんでいいのか感情がごちゃごちゃしてるけど…たぶん、いつもの彼の気まぐれに振り回されたってことなんだろうな。 (いじわるの延長なの?) やっぱ鬼 |