走る | ナノ
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・・・・・ 66・・

広い湯船を独占しながら、隣のお風呂から聞こえる楽しげな会話に耳を傾けほのぼのとした気持ちでいると、何故か私がいることに気付いたジローに突然しりとりしようとか声をかけられ、何故か湯船にいる全員でしりとり対決で白熱してしまいのぼせてしまった。一日の疲れを癒やすどころか、さらに疲れてしまった。そして声だけでのやりとりだったけど一体向こうのお風呂には何人の選手がいたのだろうか…。

暑い暑いと手で顔を仰ぎながら脱衣所を出ると、すぐそばの自販機の前で頭を抱えている切原くんと、その周りに桃城くんと越前くんがいた。

「んだよこれ!」
「壊れてんじゃねぇのか?」
「そもそも飾りだったりして」
「自販機の周りに集まって一体君たち何をしてるのかな?」
「あ、みょうじ先輩!」

やあやあと手を挙げて挨拶すると越前くんから「なんか酔っ払いみたいっスね」なんて言葉を頂戴した。ショックだ。

「飲み物買おうと思って小銭入れてるんですけど、戻ってきちゃうんスよ」

口を尖らせて説明してくれた切原くんが、ホラねと小銭を自販機に投入する。するとすぐにチャリンと返却口に小銭が落ちた。

「これ跡部さんに言った方がいいですよね?」
「まあ待ちたまえ桃城くん」
「みょうじさんだんだんキャラ変わってきてません?」
「ホントに酔ってんじゃないの?」
「まあまあそんなことより」

返却口から小銭を取り出して切原くんに返す。

「切原くんは何が飲みたかったの?」
「え?コーラ」
「越前くんは」
「ファンタ」
「桃城くんは?」
「フルーツオレ」
「あらやだ可愛い」

ぼそっと切原くんが「おばちゃんかよ…」と呟いたのを私の耳はばっちり捉えていた。スッと手を切原くんの顔に向かって伸ばす振りをするとすぐさま逃げるように桃城くんの背中に隠れてしまった。よし、まだこの手使えるぞ。

「で、そんなこと聞いてどーすんの」
「まずはコーラね」

ポチっとコーラのボタンを押すと、ガコンと音を立ててコーラの缶が落ちてくる。それを取り出し、目を丸くしている切原くんに手渡してからファンタとフルーツオレのボタンも押す。そしてそれぞれに手渡せば、現実に引き戻された切原くんが「何で!?」と声をあげた。

「言ったじゃん、私超能力使えるって」
「アンタが言ったの透視能力でしょ」
「そもそもあれ嘘だったじゃないすか」
「みょうじ先輩 超能力者だったんですか!?」
「素直かよ」

渇望していた(大袈裟か)コーラで喉を潤した切原くんがうんめーなんて言っている。可愛い。守りたい、その笑顔、プライスレス。

「前にね、銭湯には自販機だろって岳人が騒いだことがあってね、いや銭湯じゃないからここって感じなんだけど…それで跡部が自販機設置してくれたんだけど、お客さんからお金取るなんて真似できないって」
「跡部さんぽく」
「俺様が客から金なんざ取るわけねーだろ、アーン?好きなだけ飲みな!」
「すんません全然似てません」

桃城くんのムチャ振りに、渾身の物真似を披露したにもかかわらず一瞬でダメだしされてしまった。結構似てたと思うんだけど…越前くんと切原くんを顔面崩壊させるくらいにはいい出来だったと思うんですけど。桃城くん結構辛口……。


「とりあえずこの自販機はお金入れなくてもボタン押せば飲み物が出ます」
「跡部さん最高かよ」






切原くん達と分かれて、部屋に向かう途中で跡部の後ろ姿を見つける。自販機にシュークリーム味のジュースの導入を検討してもらおうと、数歩先の背中に声をかけようとしたろころで、誰かと会話をしていることに気付き、手を口に当て出しそうになった声を飲み込んだ。そのまま何故か慌てて今さっき曲がったばかりの角に隠れる。あれ、何で私隠れたんだ!?

さほど距離が空いていたわけではないけど、どうやら跡部達は私のことに気付いていない様子で会話を続けていた。
盗み聞きなんて趣味が悪いと踵を返し、岳人たちを呼び出して一緒にかくれんぼでもしようとケータイを取り出した所で、ふと聞き覚えのある声に名前を呼ばれ足が止まる。
やっぱ隠れてたのバレてた…?

おそるおそる顔を少しだけ角から出してみるが、相変わらず跡部の後ろ姿が見えるだけだった。出ていくべきか、どんなテンションで出ていくのが正解かなんて考えていると自然と二人の会話が耳に入って来た。どんどん出ずらくなってくような…てかやっぱ私のこと気付いてなかったんじゃね? このまま何も言わずに立ち去るのが吉なんじゃないか。そうは思っても、自分の名前が出されたせいで話の内容が気になってしまう。その表れのように足がピクリとも動いてくれない。

「部長、あの人に甘過ぎじゃないですか?」
「別に甘くねぇだろ」

跡部の陰で姿を確認することは出来ないけど、この声は中尾くんのものだ。もしかして、もしかしなくても、穏やかな話じゃなさそう。ドキドキと心臓が大きく脈打ち始めるのを感じながら手を強く握る。聞いちゃダメだ、そんな言葉を頭の中で繰り返し響く。もう一方で聞かなければいけない、そんな声がする。


「じゃあ何で、あの人が仕事してないことについて何も言わないんですか!」

しんとした廊下に中尾くんの声が響く。私の元にもはっきりと届いた言葉に心臓を思い切り掴まれたような苦しさを覚えた。
心当たりがありすぎて正論という金槌で思い切り叩かれたように頭が痛い。自分は初心者だからと仕事の大半を中尾くんに任せているのは事実だし、それが彼の負担を大きくしている自覚もあった。静まり返ったこの空間にキリキリと胃が痛み始めた。自業自得の結果だと頭では解っているのに、自分が被害者のような気持ちになる。自分の弱さが露呈するみたいで嫌だ。


「仕事してねえって?」
「そうですよ、気付いたらあの人いないし、戻ってきても球拾いだってさせられないし、応援もちゃんとしないじゃないですか」

一つ一つ私の負い目を針で突かれているような気分だ。なんていうんだろう、黒ひげ危機一発の黒ひげくん人形になったような感じ。どんな例えだよ解んないよ自分で言ったことだけど解んないわ。



「反論しないの?」
「…、…!」

吃驚して声にならない声が出た。肩越しにかけられた声に振り向くと眉間に縦皺を作った精市くんが壁に身体を預けて立っていた。

「なんでこんな所に精市くんが…」
「君こそ何でこんな所にいるんだろうね?」
「そ、それは…」

自分の部屋に行く途中だったから、そう伝える前に精市くんがすぐそばのドアを指差す。

「ちなみにそこ俺の部屋なんだ」
「あ、そうなんだ」
「丸井から肝試しのお誘いがあって向かうところだったんだよね」
「…きもだめし……」
「少し前からなまえさんの後ろにいたんだけど気付かなかった?」
「全然気づかなかったんですけど…気配消して人の背後に立つのやめてください」
「そんなことはどうでもいいし、丸井から催促のメールも来てるんだよね」

割とどうでもよくないんですけど…あと丸井くんから催促のメールが来てるなら急いで行けばいいのに。
反論する前に精市くんの手が頬に伸びてきて、きゅっと摘ままれる。だ、だからそういう、人の顔に安易に手を伸ばすのもやめてほしいんですけど…!ていうか精市くん肝試し参加するの?早く行かなくていいの?私に構ってる場合じゃないんじゃない?

「なまえさんに構ってる暇はないんだけど、あのチワワ君は黙らせないとね」

口元が緩い弧を描き、目元を細めた精市くんはとても優し気な、それでいて儚さを感じさせる微笑みを浮かべている。なのに、例えるなら聖母のような菩薩のような天使のような笑みの向こう側に、夜空よりも黒い闇が見えるような気がするのは何故だろう。気のせいだろうか。そういうことにしておきたい。
そしてチワワ君というのは誰の事でしょうか。


精市くんの微笑みという無言の圧力に逆らえるわけもなく、手を掴まれされるがままに跡部達の元まで引きずられてきてしまった。いや、あの、あんまりシリアスな雰囲気が得意じゃないからあれこれちょいちょい現実逃避してたんだけど、気まずい。今この二人の前に出たくないんですけど。精市くんチワワ君を黙らせに来たんですよね私いりますかね?

「うちの臨時マネージャーがゴミ屑って話が聞こえてきたんだけど」
「そ、そこまで言われてなかったと思うんですけど…!」
「…なまえ」

跡部の目が私を捉える。聞いてたのか、跡部の口から静かに吐き出された言葉に小さく首を縦に振ると、跡部の眉がぴくりと動き、その隣に立っている中尾くんがばつの悪そうな様子で口許を覆って顔を私から思い切り逸らした。

「な、中尾くん、」
「何ですか…言っておきますけど、俺間違ったこと言ってませんから」
「うん、ごめんなさい…中尾くんの負担になってることは解ってるし、こんな素人が合宿に参加して申し訳ないと思ってる」
「…だったら、解ってるんなら、ちゃんとしてください」

中尾くんの睨む目を見るのが怖くて、逸らすように頭を下げ、ごめんなさいと言葉を絞り出すと、後ろにいる精市くんの方から溜息が聞こえた。跡部がオイと声を出すのと、襟首が掴まれすごい勢いで後ろに引っ張られたのはほぼ同時だった。
精市くんが不機嫌な顔で「バカ」と私の目を見て言う。考えるまでもなく私に向けられての言葉だった。流石に今の一言で徐々に削られていた私のHPは一気に0へ近づいた。な、何で私がバカと言われなければ…あ、仕事ちゃんと出来てないからか。

「ねえ、中尾君」
「何ですか?」
「昨日の朝と昼と夜ご飯何食べたか覚えてる?」
「急に何なんですか? 覚えてますけど」
「美味しかったかい?」
「はい…ってその質問に何の意味が?」
「毎日洗濯されたユニフォームにタオルとか使えるって有難いよね」
「すいません、幸村さんが言いたいことって…」
「ん?俺が言いたいことはそれだけだよ」

はあ?と声を荒げた中尾くんを跡部が窘める。精市くんは最後ににこりと笑って「それじゃあ俺これからちょっと用があるんだ」と中尾くんとのやり取りを終了させた。マイペースにも程があるだろ、跡部の顔がそう言っている。私もそう思う。精市くんちょっと、色々と、自由。

「そういうことだから、後はよろしくね」
「アーン?」
「跡部なら俺が言いたいこと解るでしょ」
「フン…まあな」

微妙な空気を残したまま、精市くんは私の手を引き「それじゃ、俺たちもう行くね」とさっさと跡部達の隣を通り過ぎる。結局、精市くんがしたいことって何だったの?中尾くんに何を言いたかったんだろう。

「あ、早くって連絡きてた」
「…あの、」
「何」
「精市くん…あ、あり、ありがと…」
「なまえさんってやっぱバカなの」
「バカって、ひ、ひどっ!」
「酷いのはそっちの顔だろ」

ぴたりと精市くんが足を止め、それに倣って自然と私の足も止まった。顔がひどいとか精市くんにたびたび言われてはいるけど、こんな時に言わなくたっていいのに、意地悪。

「泣きながらお礼言われても嬉しくない」

精市くんが困ったように眉を下げる。何でそんな顔をするんだろう。どうしてそんな風に私を見てるの?
伸びてきた手がいつの間にか零れていた涙を拭う。

「いつかなまえさん言ってたよね、」

精市くんの両手が伸びてきて、両頬を優しく包む。

「誰かにここに居ていい、邪魔じゃないって言ってほしいって」
「…え、……」

じわりじわりと頬が熱を帯びる。精市くんの手の温度が移ってしまったのかな、なんて…そんなわけない。
動揺を隠しきれず、金魚のように口をパクパクさせることしかできない。何なんだこの状況は。突然のことすぎて目が回りそう。どうして、そんなこと覚えてるの。自分でも忘れていたような言葉を言われて、心の奥底から、お腹の奥から何かが沸き上がってくる。


「俺が言ってあげる」

精市くんの額が自分のそれとぶつかる。普段だったらコツンなんて可愛いものじゃなくて、ごっちんなんて頭突きをされそうなのに。本当に何なんだろうこの状況。頭の中がごちゃごちゃで、いよいよ目の前がぐるぐる回りそう。

「なまえさんがこの合宿に来てくれてよかった。君がいてくれてよかったよ、すごく助かってる。だから邪魔になんてなってないし、自分が仕事出来てないなんて思わなくていい、君は充分すぎるくらい働いてくれてるんだから」

ひとつひとつの言葉が優しく胸の中に沈んでいく。こんなに至近距離に精市くんがいて、頭の中沸騰しそう。




「あ、そうだ。なまえさんも肝試し一緒に来ない?」

いよいよ爆発しそうというタイミングで精市くんが離れる。そして何を言い出すかと思えば……これまでの謎の雰囲気はどこへやら。いや、今も謎の雰囲気には包まれているけれども。
全身の熱は未だひかない。熱い。内側も外側も、熱い。

「え、遠慮しておきます…」
「そう?それは残念だな」
「ははは…」
「それじゃ、俺は行くけど…今日は早めに休んだ方がいいかもね」
「…うん、ありがと」


(泣き顔より笑顔がいい)
聞くなら