走る | ナノ
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・・・・・ 57・・

ついにこの日が来てしまった…自分を取り巻くどんよりとした空気の中で項垂れた。ずぅん、という重苦しい効果音が聞こえてきそうだ。

合宿参加を命じられたあの日から約1ヶ月。何度か部活にお邪魔させてもらい精市くん指導の下、懸命にマネージャー業とはなんたるかを身体に叩き込んだ。あやふやだったテニスのルールも、なんとなく解るレベルまで上達したのだ。自分では褒めてほしいくらいの進歩なのだが精市くんには笑顔で罵られた。あぁ、あの日々が懐かしい。

「なまえさん、何もかもから解放されたって顔してるけど本番はこれからだからね」

ね?と笑顔で顔を覗き込んでくる精市くんに解ってるよ、と口を尖らせて答える。
そんな私を見て精市くんは肩をすくめた。まだ乗り気じゃない、なんて言ってるの?そう言いながら精市くんは床に置いた荷物を肩にかけた。当たり前だ。乗り気では、ないのだ。

「まあなまえさんにしては粘ったと思うけど」
「だって、何かご褒美ないとチャレンジできないと思ったから…」

もごもごと口ごもりつつ、頬を掻く。精市くんがおかしそうに喉を鳴らして笑った。
マネージャーを引き受けることを承諾した上、テニス部レギュラーとの顔合わせまで済ませてしまっては、断ることなどできない。観念した私は、精市くんにマネージャーを引き受ける代わりの条件を突き付けたのだ。

「帰ったら一緒にしようね」

頷く私に柔らかい笑みを浮かべた精市くんが「さあ行こうか」、言いながら家を出る。それに倣って外に出れば早朝だというのに、太陽は高い位置で輝いていた。なんて働き者なんだ、燦燦と輝く太陽に感心を抱きつつ眩しさに目を細める。
今日から合宿が始まるのだ。いやいやな気持ちはあるけど、頑張ろう。足だけは引っ張らないように精一杯頑張ろう。精市くんの背中を見ながら気持ちを入れ替えるように大きく頷いた。

合宿が終わったらマネージャーの報酬に夏休みの宿題を精市くんが見てくれることになっている。
本当は合宿参加する代わりに私の宿題片づけてよ、と言いたいところだったけど、精市くん相手にそんな強気に出れるわけもなく、土下座する勢いで宿題一緒にしてくださいお願いしますと懇願したのだ。こちらの頼みを一方的に聞いてもらうのも悪いよね、そう前置きをした後に そんなことでいいならいくらでも。そう言い優しく微笑んだ精市くんをあの時ほど崇めたくなったことはないだろう。いつもの魔王っぷりはどこへやら、その姿はさながら天使か神様か…。




学校に着くとほとんどのレギュラー達が揃っていた。その後ろにはでかでかと紫の文字でAtobeと書かれた大型バスが停まっていた。誰の趣味なのか知らないが、ラメ入りの紫色で書かれたAtobeの文字は金色で縁取られ、その周りには赤い薔薇が所狭しと咲いている。なんと悪趣味な……出来れば乗りたくない。派手さを極めたそれに今から乗らなければならないのか、そう思うと自然と深い溜息が出た。精市くんの方を伺うと、眉間にこれまで見たことないくらいの縦皺が作られていた。

「お、幸村君おはよ。みょうじもはよ」
「おはよう、皆揃ってるかな?」
「あとは弦一郎と赤也だな」

あまりの形相に声をかけることが出来ないでいる私を他所に、丸井くんに続いて柳くんが普通に挨拶を交わす。なんという猛者たち……。完敗です。
二人が来れば全員揃う、そう言いながら柳くんが時計を見た。あと5分で集合時間になるところだった。

「真田がいないなんて珍しいね」
「大方、赤也を迎えに行ったのだろう」
「保護者がいてくれてよかったよ」

真田くんも大変だなあ…なんて3人から少し離れたところで考えていたら背後から、「 さすが立海テニス部のオトンぜよ…」そんな声が聞こえて振り返ると眠そうに目をこすっている仁王くんがいた。

「仁王くんおはよ…ってちゃんと起きてる?」
「ん。一足先に中行って寝てたい…」

くぁ、と欠伸を漏らした彼は今にも立ったまま寝てしまいそうだ。既に半分寝てるのか、フラフラしている仁王くんを前に両手を胸の前で構える。もし倒れられたら、果たして私だけで支えきれるだろうか……。右へ左へ揺れている仁王くんから目が離せなくなってしまった。


「みょうじ」
「…あ、柳くん」

影が差したと思ったら名前を呼ばれ、視線を上げれば柳くんがこちらを見下ろしていた。背の高い柳くんのお陰で後ろの太陽がすっぽりと隠れている。ずっと柳くんを見てたら首が痛くなりそうだなぁなんてぼんやり思った。

「半ば無理やり参加させてしまってすまないと思ってる」
「え…柳くんが謝ることじゃなくないですか?」

無理やり参加させたのは精市くんだし、柳くんは何にも悪くない、そう伝えようと今度は体ごと柳くんに向けて胸の前に掲げていた両手を振った。むしろ謝るのは私の方だ。テニスのルールさえあまりよく知らない私なんかが突然マネージャーだなんて選手達も心配だろう。充分なサポートが出来るのか私だって不安なのだ、選手達はきっと私の何倍もそう感じているはず。柳くんが困ったように眉を下げ笑う。
背後から「うわっ仁王よっかかってくんな!重い!」「もうダメじゃ…フライアウェイしたいぜよ…」「俺の上で寝んな、立て!」なんてやり取りが聞こえてきた。ピークを迎えた仁王くんが丸井くんを巻き込んで倒れたらしい。目が離せないと言っておいて一瞬で離した私のせい……じゃないよね?丸井くんお疲れ様です!


「そのことでお前が申し訳なさを感じることはない、気にするな」
「ありがとう、でも精一杯頑張るから。とりあえず迷惑だけはかけないように気を付ける!」

また柳さんが戸惑ったように笑う。あれ、なんか変なこと言ったかな。えーと、と視線を泳がせていると、丁度丸井くんとジャッカルくんが仁王くんを引きずりながらバスに乗り込んでいるのが見えた。バスとの段差に仁王くんの膝が遠慮なく打ち付けられていて可哀想だった。丸井くん仁王くんに乱暴っていうか適当だからな……。膝剥けてないといいけど。

「あまり、気を張り過ぎないようにな」

ぽんぽんと頭に優しく手を置かれる。撫でられていると気付いた途端、びっくりして思わず「ひぇっ?!」と変な声が出てしまった。

「あぁ、すまない。ちょうどいい位置にあるからな」

ふわりと優しく微笑んだ柳くんがゆっくりと手を引っ込める。突然の事に驚きながら身構えるように両手を撫でられた頭に置いて「あぁ、うん、あぁそう、だよね、うん、」なんて、わけのわからない肯定の言葉を吐き出す私を見て、柳くんが顎に手を宛てながら「面白いデータが取れそうだな」と呟いた。で、データ?!何の?!
金魚のように口をパクパクと開けながら柳くんを見上げていると精市くんが隣から現れた。こっちにもびっくりだ。


「真田たち揃ったよ」
「そうか」

間に入ってきた精市くんが、皆揃ったことを告げる。チラッと時計を見れば時刻は集合時間を過ぎたところだった。柳くんはフッと笑って「期待してるぞ」そう一言残し一足先にバスへと向かってしまった。隣に立つ精市くんと揃ってその後ろ姿を見送る。

私たちも行こう、と精市くんに声をかけるが中々返事が戻ってこない。
バスの入り口を見続けている精市くんがやっと私の視線に気付いたのは、柳くんがバスに乗り込んでしばらくしてからだった。もう一度名前を呼べば、漸く意識がこちらに戻ってきたのか、視線が交わる。一瞬だけ凄く怖い顔をしていた気がするが何に対しての物なのか、単なる見間違いなのか確かめる術もないので細かく訊くのはやめておいた。
もう一度行こうと促せば精市くんは頷いてから一歩足を踏み出す。それに続きながら 席順とかどうなってるんだろう…なんて考えていたら、目の前を歩いていた精市くんが不意に足を止め振り返る。衝突を避けようと無理に足を止めようとしたら、とっさの事に足がもつれそうになってしまった。車は急に止まれないんだぞ。車じゃないしそれほどスピードも出てなかったけどさ。

「ど、どうしたの?」
「…難しいと思うけど、」
「ん?あぁ、合宿のこと?」
「違うよ」

どこか苛立ったように少し目を細めた精市くんが声を低くする。そんな姿に背中が自然と伸びた。射貫くような精市くんの目を前にすると、いつも金縛りにあったみたいに動けなくなってしまう。


「あまり柳に、隙を見せないで」

俺達のこと詮索されたくない。そう続けた精市くんは、最後に「いいかい?」と確認しながら乱暴に、ゴミでも払うように頭の上で手をしゃっしゃっと往復させた。え、これもしかしてめっちゃくちゃ乱暴だけど頭撫でられてんの!?
よく解らないけど、とりあえず私のデータを取られないようにしろということだろうと解釈してわかったと告げれば、満足したのか精市くんの手が離れていく。

精市くんの手によってぐしゃぐしゃにされた髪の毛を手串で整えながら、先を歩く彼に続いて派手さを極めた悪趣味全開のバスに乗り込んだ。



(赤也と同じ頭してんな)
おそろい