走る | ナノ
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「よろしくお願いします」

注目を浴びながら若干引き攣った顔で挨拶をした私に、ぎこちない拍手が送られる。
私は今、立海テニス部の部室にいる。部活動の時間は当に過ぎ、目の前に並んでいるテニス部レギュラー陣は皆制服に身を包んでいた。
多くの目に晒されるのはあまり得意でないので、今すぐにでもここから飛び出して逃げたい。それが出来ないのは唯一の出入り口を笑顔で陣取っている精市くんがいるから。何で私がここにいて、こんな目に遭わねばならぬのか………。

昨日の夜、突然精市くんから8月に行われる他校合同合宿に参加するように頼まれた。当たり前だけど選手としてではなく、立海のマネージャーとして。もちろん、テニスのルールもまともに覚えてない私なんかにマネージャーが務まるはずもなく、丁重にお断りしようとしたのだけど、精市くんの困った顔を見て迷いを見せてしまったのがいけなかった。隙を見せてしまったが最後、彼にいいように言いくるめられてしまったのだ。自分の甘さが恨めしい。恨めしいのだけど、普段意地悪ばかりしてくる精市くんが私に頼って来たのは素直に嬉しかったし、とても困っている彼を放っておけなかった。引き受けると言った時の精市くんの顔がとても嬉しそうだったから、よかったとかなんとかなるだろう。なんて簡単に思っていたのに。やっぱり引き受けたのは間違いだったんじゃないかと今更だけど少し後悔している。だってテニスなんて本当によく解らないのだ。

今回は夏休みに自主的に行う合宿なので、跡部家の使用人は使わないということで各校マネージャーを用意することになったらしい。跡部のやつ、ケチりやがって。後で覚えてなさいよ…。

テニスのルールさえ怪しく、マネージャーがどんな仕事をするのかも解らないと伝えた私に、それなら合宿の前に部活に参加したらいいとさも名案だとでも言いたげに精市くんが手のひらを叩いたのだ。軽々しくそうかあなんて頷いた昨日の私を張り倒したい。今更だけどマネージャーってめちゃくちゃ面倒じゃないか。

人の顔と名前を覚えるのもあまり得意じゃないのに…なんて心の中で愚痴りつつ自己紹介してくれる目の前のレギュラー陣の顔と名前を頭に叩き込んだ。知ってる顔が多くて助かった。いや大半知ってた、そこはよかった。一度宮城さんと練習試合見に行っといてよかった。
同じクラスである丸井くんと仁王くんが二人そろって「俺パス」「俺もパスで」なんてまるでチェンジと言うように軽く流して (チェンジでって私が誰よりも声を大にして言いたいわ) 全員の自己紹介が終わった。出来れば皆さん一人ひとり名札を付けてほしいところだ。
自己紹介が終わったところで一番最初に丸井くんが口を開いた。


「みょうじがマネージャーするなんて聞いてねぇけど」
「うん、昨日決まった」
「何で言わなかったんだよぃ」
「丸井くんを驚かせてやろうと思ったの」
「ホントかよ」

ぷくーとガムを膨らませた丸井くんにそう答えたが、本当は嘘だ。
昨日の仁王くんの氷帝と立海ならどちらを応援するか聞かれ、すぐに答えられなかった。そんな私が立海のマネージャーをすることに後ろめたさがあったから言い出せなかったのだ。それもあってマネージャーなんて引き受けたくなかったのに…精市くんに押し切られちゃうんだもんなあ。昨日の夜のやり取りを思い出し溜息が漏れたところで精市くんが「というわけで」と切り出した。

「合宿の間マネージャーをしてもらうから皆よろしくね」

笑顔で皆に向き直りそう伝えた精市くんに反論する人は誰もいなかった。誰か反対してくれたなら、私もそう思いますじゃあこの話はなかったってことでごめんなさい、と一目散に逃げ帰っていたのに。いいの、私ほんとにテニスのことよく解ってないしマネージャーなんてしたことないし運動部にかかわったことさえないからね、ほんとにいいの?私の心の訴えも空しく 「週1ペースでマネージャーに来てもらうからそのつもりで」今度は私に笑顔を向けてよろしくと精市くんが言う。
私も彼ら同様に反対の言葉なんて出てこなかった。なんだこの圧力…。精市くんの笑顔にはg(重力)を操る能力が備わっているのだろうか。



(尽きぬ悩みに胃が痛む)
君子不器