走る | ナノ
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・・・・・ 53・・

「あ…!」

家の中に入る前にたまたま寄った庭の花壇を見ると、今朝までは蕾だった花が咲いているのに気付いた。
薄い桃色をした小さい花たちを見て、嬉しくなる。素朴な愛らしさに頬が自然と綻んでしまう。可愛らしく咲いた花たちに、きれいに咲いてくれてありがとうと小さくお礼を伝えればそれに応えるかのように風に乗って小さく花たちが揺れた。
前に精市くんが、ニチニチソウは小さいけれどとても丈夫な花だと教えてくれた。小さいのに強いんだよ、と目を細めて愛おしそうに出たばかりのニチニチソウの芽を見ていた彼のことを思い出す。その目が私に向けばいいのに。いつかそんな日が来てくれたら…。目の前で可愛らしい花弁を揺らしているそれを、きっと優しい目で映すのだろう。慈しむような彼を独占してしまいそうなそれを妬まし気に見ていることに気付いて、そんな気持ちを振り払うように頭を振った。

「バカみたい、」

……花に嫉妬するなんて。私がお世話して咲いてくれた花がこんなに綺麗に咲いたのだ。羨ましいだなんだ言っていられない。華やかさを増した花壇を精市くんにも早く見てもらいたかった。


夏が近づいているせいか、日は日ごとに長くなる。それでも精市くんが部活を終えて帰宅するまで日が出ているわけではなくて、彼が帰宅するのはいつも日が落ちきって暗くなってからだった。
今すぐ見せたいのに。そんな気持ちが先走り居ないと解っているのについ後ろを確認してしまう。いないと解っているはずなのにいざ確認して誰もいないと嘆息する。写真を撮ってメールで報告しようか、いや実物を直接見てもらいたい。それにメールを送ったところですぐに開いてもらえるとは限らない、彼は部活中なのだ。葛藤の末溜息を吐く。なんてくだらない葛藤を……。取り出した携帯のカメラ機能を起動して、風を受けて小さく揺れているニチニチソウにピントを合わせた。画像には残したけど、それを精市くんに送るのはやめておいた。やっぱり写真より先に本物を見てほしかったから。

いつまでも外にいても仕方がない、諦めて家の中へ入る。
ただいま、と声をかけるが返事はない。一度キッチンに顔を出して歩弓さんがいないか確認する。買い物に出ているのかキッチンには誰もいなかった。キッチンを後にしそのまま部屋へと続く階段を上る。制服からその辺に適当に散らかしたままの部屋着に袖を通せば、ベッドの上に放り投げていた携帯が震えた。
携帯を手るとメールが1件届いていた。メールを開くと相手は歩弓さんで、本文には炊飯器のスイッチを入れておいてほしいと書かれている。文末につけられた顔文字に汗マークの絵文字が可愛かった。
急いで下へ降りてキッチンへ入り頼まれた通り炊飯器のスイッチを押した。何か他にやれることはないか見渡せばシンクに洗い物が残っているのを見つけた。仮にもお世話になっている身なのだ、できることは積極的にしなくては。腕まくりをして、スポンジに水と洗剤を含ませた。食器に泡をつけながら窓の方を見る。青かった空は既に紫と橙色を混ぜたような色に変っていた。

やっぱり今日も精市くんの帰りは遅いのかも。
手についた泡を洗い流してから再び庭に出てみる。そしてもう一度、どうせ無駄だと自分に言い聞かせながら精市くんを探してみる。


「あっ」、100mくらい先に待ちわびていた姿を見つけるやいなや気が付けば走り出していた。つっかけが脱げそうになって足がもつれるのも構わずに家の前の道を彼めがけて思い切り走る。数十メートルの距離だというのに、いやに長く感じた。いや50mも距離があればそりゃ遠いか。


「精市くん!!」
「なまえさん?」

彼の前で止まって、荒くなった息を整える間もなく「会いたかった!」とずっと抱えていた気持ちを吐き出していた。言ってから、しまったと思ってももう遅い。目の前の彼は驚きと困惑が入り混じった顔で私を見ていた。次の言葉が中々出てこなくて、みるみる内に恥ずかしさで顔が熱くなってくる。夕日と走って息があがった今の状態なら気付かれはしないだろう。

「どうしたの?」
「来て!」
「えっ?」

彼の質問に答える前に、今日は早いね とかおかえりを言う前に、無理やり精市くんの手を掴んで庭へと走る。
花壇の前で立ち止まる。掴んでいた手を放して、勢いよくくるりと身を反転させれば今度こそ足がもつれ後ろへ倒れそうになる。すかさず伸びてきた精市くんの手が私を引っ張ってくれたおかげで転ぶことはなかった。た、助かった…!ため息交じりに咎められた。素直に「ごめんなさい」と謝れば「本当にね」と返された。う、はしゃぎすぎていたかもしれない…。

「あ、ありがとう…」
「そんなに慌ててどうしたの」

少しだけ、呆れを含んだ目で見られて言葉が詰まる。これ、そう言いながら花壇を指す。指の向きに合わせて、精市くんの頭が私から花壇の方へ動く。

「へぇ」
「帰って来たら咲いてるの見つけて、精市くんに早く見せたくて」

花壇の前で膝を折った精市くんは綺麗に咲いているニチニチソウを前に、やはり綺麗に微笑んだ。よかった、日が落ちる前に見せられた。精市くんに倣って隣にしゃがむ。ふふっと声を漏らして笑うと精市くんが「綺麗に咲いてよかった」と私に笑いかけてくれた。いつも意地悪を言ってくる精市くんがこんな優しい顔で私を見るなんて。羨望の目を向けてしまったニチニチソウにごめんねと心の中で謝った。あなたのお陰でこんなに優しい精市くんの笑顔を見ることが出来ました。

「そういえば、今日いつもより帰るの早かったね」
「うん、今日はミーティングだけだったからね」
「そうなんだ、てっきりテレパシーが通じたのかと思った」
「なまえさんってホント都合のいい解釈ばっかりするね」
「だって、本当に嬉しかったから」

一緒に喜んでほしかった、一番に見せたかったし、一緒に見たかった。お願いが全部叶ってしまった。嬉しくないはずがない。

「ありがとう」

突然にお礼を言われ、首を傾げる。精市くんに呆れられることはしたけど感謝されるようなことをした覚えがない。むしろありがとうはこちらの台詞だ。
何に対しての言葉なのかも解らないままどういたしましてと返すことが出来ずにいれば「お陰で疲れが吹っ飛んだよ」そう続いた言葉に今度は大きく頷いて見せた。私の自己満足に付き合わせたようなものなのに、そんな風に言ってもらえるなんて…しかもあの精市くんに。頬が上がってしまうのも無理はないだろう。


「可愛いね」

素朴な中にも凛々しさを見せる小さな花に目を細める精市くんの横顔が、とても綺麗で思わず見とれてしまう。

「うん」
「可愛い」

言いながら、ゆっくりとこちらを向く精市くんの唇が弧を描く。目が合った瞬間、心臓が大きく震えた。優しい目をしながら呟かれたその言葉が、まるで私に向けられたもののように思えてしまって、ぎゅうと思い切り心臓を掴まれたように痛んだ。



(そんな目で、見ないで)
混じる色