走る | ナノ
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・・・・・ 48・・

シャンプーが切れたと風呂からあがった妹が告げる。それを聞いた母さんが買い置きしてあったのがあるだろうと風呂場の方へ向かう。次に入ろうと思っていたのに。なんだか出鼻を挫かれたような気分だ。
風呂場から戻ってきた母さんは、そういえばさっき切れたやつが買い置きの分だったわと言った。
風呂に入ったのは妹だけだから、俺や母さん、それからなまえさんはこれからシャンプーを使うことになる。それが切れたとなると頭が洗えないし、俺頭毎日洗わないと気がすまないタイプだしむしろ潔癖症だしかなり困るし。妹がシャンプーなくなったから水で超薄めて使ったと話していることからもう容器の中には1滴もシャンプー液は残っていないだろう。
むしろ水で薄められたせいで容器が洗われて、俺の頭より先に容器の中が綺麗さっぱりになったことだろう。容器の分際で俺より先に綺麗になるなんて……そのおかげで俺が超絶困ってるんですけど。なんて言って空になったシャンプーに怒りをぶつけたところで仕方ない、仕方ないから買ってこよう。
そう決めた矢先、なまえさんが自分が買いに行くと上着を着ながら申し出てきた。そろそろ外も暗いし、俺も一緒に行くと呼び止めようとしたのだが彼女の方が早かったみたいで俺が呼び止める前に彼女は外へ繰り出していた。マイペースな彼女にしては機敏な動きに驚いたこともあり、しばらく硬直してしまった。善は急げとは言うけれど、急ぎすぎるのもどうかと思うね。まあいいや。

「なまえちゃんって働き者よね」
「どうして私のこと見ながら言ってるの?」
「どうしてかしら?」
「と言いつつ俺を見るのはどうして」
「どうしてかしらねぇ?」

母親の嫌味もなまえさんが働き者なのも別に俺が気にすることもないだろうと適当にやりすごす。気が利かない兄妹で申し訳ないです〜なんて声が隣で聞こえる。それって俺も気が利かないってことになるじゃないか。


しばらくしてなまえさんが帰ってきた。たまたま2階へあがろうとしていた時だったので、玄関を抜けたなまえさんとばったり会ってしまった。会ってしまった、というと俺が嫌がっているように聞こえるけど別に深い意味はない。

「おかえり」
「ただいま!精市くん次お風呂入るって言ってたよね」
「俺よりなまえさん先に入ったら?」

そう言って赤くなってる鼻の頭を指の関節のとこで撫でてみた。冷たい。あ、なんかほっぺたまで赤くなっちゃった。トナカイからアンパンマンになったね、なんてからかってやろうとしたけどやめた。わざわざ買い出しに行ってくれたからね、労わらないとね。

「宮城さんが家の前で待ってて、ちょっと話してくるから先にいいよ!」

どうやら近くのコンビニから宮城が出てきたので家の前まで一緒に歩いてきたらしい。心配するような年でもないけど一人で夜道を歩かせることに少し不安を感じていたので安心した。

「じゃあ、先にいただこうかな」
「うん」

なまえさんが持っていた袋を受け取り、「あんまり長く外にいると風邪ひくから、長話もほどほどにね」 そう言いながらポールハンガーにかかっているマフラーを首に巻いてやる。
驚いたように目を見開いて「ありがとう」と声を裏返しながら言ったアンパンマン(あ、間違えた) は慌てたように俺に背中を向けた。うーん、あれは「えっ、精市君が、や、優しい!?」って顔だったな。失礼だな。
ぎこちない動きの後ろ姿がドアの向こうに消えるまで見送って、風呂場へ向かった。


頭を洗おうとした時、俺は気づきたくない現実と対峙することとなった。
なまえさんが買ってきてくれたシャンプー容器の隣にコンディショナーが置かれている。いつもの、見慣れた配置。
なまえさんが買ってきたシャンプーの容器のポンプ部分に置いた手を退けて、容器を持ち上げてみる。2、3度瞬きをしてみても目の前に持ってきた容器に何の変化もなかった。手に持っていた容器の隣には同じような色と柄をした容器がある。
ただ違うのは、真ん中あたりに小さく書かれている文字だけ。コンディショナーと書いてある以外には俺が手にしている物と何ら変わりない。そしてそのコンディショナーの容器の隣にあるのは、俺が手にした、トリートメントと書かれている容器だった。

わあ双子ちゃん!なんてボケをかましてやろうかと思ったけど余計虚しくなるのでやめた。

母親にジャンプを頼んだら、赤マルジャンプだったりネクストだったりスクエアだったりすることがあるのと一緒で、なまえさんがシャンプーと間違えてトリートメントを買ってきてしまうことだってあるんだ。
そうだそうだ、あははなまえさんてばお茶目〜あとでデコピンかなぁいやあ、げんこつだなぁ〜あはは〜。
トリートメントやコンディショナーで髪の補整に努めてもいいけど、その前に洗えないんじゃ意味がない。思いっきり泡立てた髪の毛をわしゃわしゃしないと気が済まない。

この短時間で、俺は何度“仕方ない”と物事を完結づけて諦めただろう…。
はあ、と溜息が意識せずに出てしまった。仕方ない仕方ない、そう自分に何度か言い聞かせ、まだ身体を濡らしただけなのに脱衣所へあがる。この、虚しさ…プライスレス…。
服を着て脱衣所を出て、部屋へ向かう。リビングを横切る時に母から夜のお茶会のお誘いを受けるが丁重にお断りした。今甘いものとか食べる気分じゃないし紅茶って気分にもなれない、どっちかっていうとしょっぱいもの食べたいし。いや、そもそもそれどころではないのだ。

財布と携帯を持って、再び下に降りる。それから上着を羽織りかけてあったマフラーを首にまいた。
外に出ると、思いのほか風が冷たい。昼はあんなにあったかいのになあ、なんて思いながらマフラーを口元まで上げた。
早くシャンプー買って帰ろ。走るか、いや面倒だな。早歩きでいいや。
前から吹いてくる風に若干イライラさせられながら早足で目的地まで急ぐ。

「ん?」

一瞬何かに引き止められて足を止める。周りには何もないし誰もいない。なまえさんの気配を感じたような気がしたんだけど…。
一旦左右前後を確認してから、そういえば、と先ほど彼女にマフラーを貸したことを思い出す。
丸井がよくさせてるようなお菓子みたいな甘い香りでもなく、花のような香りとも違う。だけどほんのり甘さを含んだその香りに安堵と焦燥感が同時に訪れる。何か、いやだな…背中がぞわぞわする。

再び足を進めれば風に飛ばされるように、ほのかに俺に届いた甘い匂いが消えていった。
それに対して少しでも勿体無いだとか、残念だとか、もう少し香っててよかったなとか思った自分が恨めしい。真田の裏拳くらってもいいくらい。いや、真田に裏拳されるのは嫌だから俺が真田に裏拳したい程、恨めしい。うん、そうそう そんな感じ。
なまえさんが頭の中に浮かんでくる。あー、一緒に飛ばされてけばよかったのに。なんで頭の中に居座るかなあ。頭から存在を追い出すように、足を早めた。



「ただいま」
「あらどこか行ってたの?」
「うん。ちょっと買い出し」

家に入り上着を脱いでいると、髪を濡らした母さんがひょっこりとリビングから顔を出した。

「もしかしてお風呂入った?」
「うん。でもすぐに出ちゃった」

ちょっと出かけると言い出した母さんに、袋を掲げながら「買ってきたから、大丈夫だよ」と告げる。

「なまえさんにはもう言った?」
「…言ってないけど」
「じゃあそのまま言わないで。気にされても困るか
らね」

一瞬、母さんはきょとんとした顔を見せたけれど、すぐににやりと笑って猫なで声を出してきた。うわあ相手するのめんどくさい。

「あらぁ、精ちゃん優しいのねぇ」
「別に普通だよ」

にやにやする母さんを適当に流す。

「外寒かったでしょ、先にお風呂入っちゃって」
「ん、そうする」

先にいただくね、そう言って母さんと分かれて風呂場へ向かった。脱衣所のドアを開ける。と、まさに今から服脱ぎますって体制のなまえさんと鉢合わせた。ジャストなうかよ。脱ぐ前でよかったね。

「あ…ごめん、入ってるって知らなくて」
「う、うん…えっと、精市くん何かするなら先にしていいよ」

びっくりした顔して慌てて脱ぎかけた衣服を元に戻したなまえさんは、そのまま出口の方へ向き直った。あれ、なんかちょっと余裕?

少し後ろには母がまだいるかもしれないし、また何か言われたり思われたりするのも嫌だったので、脱衣所の中まで入ってドアを閉めた。そして買ってきたシャンプーの袋をそっとその場に置いて、なまえさんの腕を引いてドアに押し付ける。なんか、面白くない……気がする。
そういえば前にもこんなことあったなあ。なんてぼんやり考えながら、前回は俺が入ってたんだっけ今回とは逆に…なんてことを思い出していた。
もう少しでお風呂でばったりするとこだったことにハッとする。危ない。これで2回目だし気を付けないと。

「今度こそ一緒に入っちゃう?」
「な、は、入らないよ!何度も言うけどそういう冗談よくないっ」
「今度は本気かもしれないじゃないか」

す、と彼女の腹部に手をやると、彼女はいつものように慌てだして俺の手を退かそうと抵抗してみせる。その姿に自尊心が満たされた気がした。
あーあ、可愛い。なんて絶対言わないけど。というか、可愛いとかなまえさんに対して可愛いって感想が出てきた自分に吃驚だ。

俺の手を掴んでなんとか腹部から手を離すことを成功させたなまえさんは、そのまま両手を伸ばしてその手で俺の両頬を抑えた。
その顔は真っ赤に染まっていて目元には薄い水の膜ができている。その顔は反則だろと咄嗟に思ってしまったけど、やっぱ今のなし。別に可愛いとか思ってない。
そしてなまえさんはどうしたわけか開いていた目を更に大きく開いた。何故か俺までつられて目を見開いてしまう。どこかおかしくなって笑いがこみ上げてきたとこで、頬を包んでいた手が離れていった。目の前に凶悪犯でも見たのか彼女の両手は何も持ってませんというように無防備に挙げられている。
……今更になって気付いてしまったことに対して、少しだけ後悔する。自分で思っていたよりも彼女との距離が近いなんて、気付いてしまってから知らない振りは出来ない。風呂場前で男女がこの距離って、なんか危ない気がしないでもない、かも。例え相手がなまえさんだったとしても。

「…冷たい」
彼女が不意に呟く。冷たい?俺が冷たいとはっきり口にするのかこの女は。にこりと笑みを見せてやるとヒッと短い悲鳴をあげながら、挙げていた手を更に上へと挙げた。なまえさんの動きは解りやすくていいね。

「外出てました?」
「え、」
「顔が冷たかったから」

ああ、冷たいって顔がね。

「ちょっと散歩してきたんだ」
「…精市君の意地悪…」
「なまえさんにだけだよ?」

からかってばっかり、そう言って拗ねるように頬を膨らませたなまえさんを見て、ドングリをたくさん頬袋に詰めたリスが脳裏に浮かんでしまい思わず吹き出してしまった。


「……おかえしっ」
「む、!?」

バッと彼女の両手が伸びてきて、一瞬の内にさっきと同じように頬を抑えられる。身じろいで逃げようとしたら両手に力が込められて頬が圧迫された。うわもう最悪。そんな俺の崩れた顔を見て、目の前のリスがプッと吹き出す。2回目だけど、もう最悪。俺もリスみたいって思って笑ったけど、彼女に笑われるなんて……。

これでおあいこでいいや、と頬が解放される。その時にふと、さっき外にいた時に香ってきた匂いが鼻孔をくすぐってきた。あーもういいやなんでも。怒る気も失せてしまった。

「俺、歯磨きたいからなまえさん早く出てって…」
「あ、うん。解った」

怒る気は失せたけど、なんかやっぱ生意気だったから意地悪してやりたくなった。

「それともやっぱ脱がしてあげよっか」
「出てくってば!」


あんな真っ赤に顔染めちゃって、これだからなまえさんからかうのはやめられないんだよね。ついつい意地悪しちゃうのもそのせいだな、いやあ困ったなあ。


俺のここまでの努力虚しく、後日彼女が真相を知り涙目になりながら謝ってくるのは今はまだ別の話。


(目糞鼻糞っていうよね)
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