×
・・・・・ 29・・ 私は、日本人である。日本での挨拶はせいぜいお辞儀とかそんくらいだと思う私なのである。ほっぺにちゅーなんて外国くらいだよね。まあほっぺは外国式挨拶と割り切れないわけでもない。じゃあ、瞼は? 瞼って挨拶でするとこじゃなくない? ていうかあれ挨拶する場面でもなかったでしょう。うん、私間違ってないよね? 今朝の仁王くんとの出来事を思い出す。思い出しては恥ずかしさが込み上げてきてその記憶を頭から排除することに努めては思い出し、思い出しては忘れようとして…それの繰り返しにもそろそろ疲れてきた。一体私は今日何回頭を振って記憶を追い出そうとしたことか…脳みそ揺れて頭ふらふらですよ。意味わからん。何であの流れで瞼にキスされたんだ。仁王くんにとってちゅーとはそんな簡単に出来てしまうものなのか。私だったら…どうだろう。岳人やジローが相手だったとしてもキスなんて出来ない。それがたとえ瞼であろうとほっぺであろうと。え、私が遅れてるだけなの? 現代人は瞼やほっぺちゅーは普通なの常識なの。生まれてくる時代を間違えたのは私なんですか。 仁王くんのこととか、行動とか、私という存在は間違えた時代に生まれてしまったのか、そのことを今日一日中ずっと考えてたらいつのまにか自分の部屋の真ん中で体育座りをしていた。あれ、私いつの間に帰ってきたんだ。上の空もいいとこである。お昼食べたっけ、宮城さん今日は学校来てたっけ…お昼のことは思い出せなかったけど、宮城さんが学校に来ていたのは思い出した。アホの塊って言われたんだっけか。なんか一日中言われていたような。丸井くんからも。あの二人は仲悪いようで息ぴったりだ。いじめっ子コンビだよあの人たち。 ていうかなんで私はこんなに悩んでるんだ。仁王くんは笑ってた、余裕そうだった。むかつく。そりゃあっちが起こしたことだから私みたいに悩むわけないけど、ちょっとはこうなんか態度に出ないのか。ていうか、だから、キスだよ、うん、瞼だったけどキスだよ。何で? 自惚れたくないから触れないようにしてきたけど、もしかして私のこと好きとか……自意識過剰ですねわかりますごめんなさい。誰に聴かれたわけでもないのに謝ってしまった。きっとそれは有り得ないことだと自分が分かっているからだろう。仁王くんは私をそういう風に思ってない、なんとなくだけどそんな感じがする。好意的だけど友達の粋を出てない、感じ。だから、解らない。好きじゃなくてもキスってできるの。私は出来ない。けど、それは私だからであって、仁王くんは違う。仁王くんにとってあれって普通なんですか。普通じゃないといいなあ、とは思う。意味もなくあんなことされたんなら、私が悩む意味も私の存在も意味をなくしてしまう。 「結局さあ、ねえ…」 私はどう結論付けたいんだって話だよね。仁王くんが私を好きであってほしいのか(いや違うな)、悩んでる自分がかっこいいとでも思ってるのか(それこそバカだね)、自分でさえどうしたいのかどういう答えを求めてるのか解らない。解らないからこそ悩むわけなんだけど。 コンコンと軽い音がドアから響いて誰かの存在を知らせた。どれくらいかは解らないけど、長く座っていたため腰から脚が小さい痛みを生み出し軋んだ。ドアをゆっくり開けると、相変わらず読めない表情を浮かべた精市くんが立っていて、珍しい彼からの訪問に隠すことなく驚きを表に出してしまった。そんな私のリアクションに眉を顰めた精市くんはやっぱりいつもの精市くんだった。 「ご飯だって」 「あ、…ありがとう、(ご飯か)」 もうそんな時間なのか、とぼんやり思って次に晩ご飯の準備手伝えなかったと反省した。働かざる者食うべからずだよ。明日はちゃんとお手伝いしなければ。自分が調子狂う。 今行くね、と一言告げて自分が制服であることに気付く。着替えてすらいないとは、自分動揺しすぎだわよ。いつもならすぐに下に行っちゃう精市くんが、未だにドアの前で不機嫌そうな顔をして立っている。不機嫌というか、私を見るときの精市くんはほとんど怪訝そうな表情で何を考えているかわからないんだけど。なんだ私なんか疑われてんのか。もう慣れてしまったわけだけど、やっぱり居心地はよろしくない。 前に学校で…今度ガーデニングについて教えてくれるって言ってくれた時のあの優しい表情はあれから見れていない。それから未だにガーデニング講座は開かれていない。 「着替えたら、」 「あのさ」 言葉の途中で話を精市くんの声によって中断させられる。 「また何かあったの?」 「え、? 何かとは…?」 仁王くんの顔が浮かび上がるからちょっとドキッとした。何かあったといえばあったんだけど、何もなかったといえばないし。そもそも精市くんは仁王くんとのことじゃなくて、仁王くんのファンの子たちのことを訊いてるんだから、何もないんだけど。そんな葛藤を精市くんが知る由もなく、彼はなんのつもりか知らないけどずかずかとドアを塞ぐように立っている私を押し退けるようにして入ってきてバタンと後ろ手でドアを閉めてしまった。え、ちょ、ご飯…。 「下行かなくていいの?」 「まだ準備できてないからいいよ」 「じゃ、あ、お手伝いして、」 「まだ質問の答え聞いてないんだけど」 「…何もなかったけど…なんで、」 私に代わって今度は精市くんが私を部屋から出すまいとドアに背中を預けて道を塞ぐ。 「宮城が、なまえさんの様子がまたおかしいって言うから」 「(そんなに態度に出てたのか)」 「本当だ」 「何がですか?」 「変だね、今日…まだ制服のままだし」 「…………」 ドキリ、と今度は心臓が軋んで痛みを生んだ。 「そういう態度されると、気になる」 「……、…?」 「気付いてない? 君ってすごく態度に出やすいんだよ」 「思いあたる節はあります」 「何かあったんだ?」 「なんもないですよ」 「言わないと痛いことするけど」 にこり、と珍しく微笑んでくれたと思ったらさらりと怖いこと口にしましたよこの人! いいい、痛いこと…っ! 心なしか精市くん楽しそうだよ。 「せ、精市くんにとって、キスってどういう感じですか」 「………は?」 「や、そんな、ゴミを見るような目をしなくてもいいじゃないですか」 「ゴミを見るような目だなんて失礼だなあ」 「(その視線の方が失礼だと私は思います! い、言えない…!)」 するりと伸びてきた腕によって緩く自分の腕が拘束され、力が込められてきゅうと締め付ける痛みが小さく走って気が付けばさっきまで私が立っていたところに精市くんが冷ややかな笑みを貼り付けながら立っていて、気が付けば私の背中は壁とぴったんこしていた。 「試してあげようか」 「は、え!?」 「俺にとってどういう感じなのか、でしょ」 とん、手の甲がドアにあたる。手がドアと縫い付けられて動かせない。そうしているのはもちろん目の前の彼の手のせいなわけですが、どうなってこうなったんだろう。 「…っそういう、冗談やめようよ」 冷ややかに微笑を浮かべる彼の表情には、冷たさ以外何も感じられなくてぞくりと背中を嫌な感覚が走り抜けた。私からしたらこういう冗談は、度が過ぎてる。 「で、どこにキスされたの?」 「は?」 「あれ、違った? 誰かにされたんだと思った」 「いや、されたっていえば…」 「やっぱされたんだ」 「うあ、ちがっ!」 冷ややかな微笑はそのままで、口元に弧を描きながらくすりと笑った精市くんはひどく綺麗で残酷で、足元から感覚を奪われていくような気がした。うっかり口が滑ってしまった。訂正したくても、精市くんがその訂正を受け入れてくれそうにない。彼は、私がキスされたという前提で動いているのだから。 「当ててあげようか」 「な、なにを」 「誰にされたか」 「だから、キスなんて…」 「仁王でしょ」 「なっ、」 何で解ったの、とまたしても口を滑らせそうになったのを寸のところで止めて精市くんをにらみつける。彼はそれを肯定と捉えたようで、自分で言っておきながら「あ、本当に?」なんて驚いた顔を作ってみせた。なんか精市くんに遊ばれてる気がする。いいように情報を抜き取られて…私の注意力がないのが悪いのか。クイズ感覚でものを当てていく精市くんにさっきよりももっとずっと大きな焦燥感にかられる。言いふらすことはしたくないけど、隠す理由は何だと聞かれても困る。出来れば私と仁王くんだけのことで終わりにしたかったのに、このままだと精市くんに全部悟られてしまいそう。ていうか既に悟っているのか。隠しきれない。 とりあえず何故相手が仁王くんだってわかったんでしょう。先ほどの彼の「態度に出やすい」発言からして、きっと仁王くんに対する態度でわかったんだろうけど。なんだ結局自分で墓穴掘ってるんじゃないか。 「手、離してください」 「…………」 「私には、たぶん理解できない。好きじゃない人に出来るなんて理解できない」 「…………」 「…………」 「なまえさん」 「…なに」 「頬、額、瞼…どこだった? あ、もしかして唇?」 「……瞼ですが」 「…ふーん。…仁王らしいけど」 一気に冷めましたというように、表情を崩して、私の手とドアを縫い付けていた手を退かす。いや、ふーんて、ふーんって! 何そんなことでいちいち悩んでるんだってんだよ、みたいな顔しなくたって…! 「ねえ、知ってる? 瞼の上のキスって憧憬って意味なんだ」 「へ、…どう、…」 「羨ましいってことじゃないかな。なんだ…なんか一気に興味うせた」 「んなっ!」 「からかってごめんね」 左目の瞼の上を精市くんの親指の腹が優しく撫でる。なんだ、これ。すっきりしたのにモヤモヤする。羨ましいって仁王くんが私を? 憧憬の、キス…なんだ、そっか…一気に冷めた精市くんに続いて一気に脱力する私がいた。 ぐ、と親指が唇を塞ぐように押し当てられる。 「んむ、っ」 「じゃあ俺は、ここかな」 「んぅ?…んふーッ!?」 精市くんの整った顔が近づいてきたと思ったら、不意に目の前から消えていつの間にか開放された手首が再び掴まれているのに気付いた。 がぶり、先ほどまで掴まれていた手首には、拘束の跡ではなくくっきりとした歯型が残った。ちくりとした痛みでなく、本物の傷みというかズキリとはっきり痛いとわかるような痛みが噛まれた手首から広がる。て、手首噛まれたなんて初めて…! ていうかこの人、噛んだ! カニバリズム? カリバリズミ…カニバリズム…カリバニズム…? あれ、あれなんだっけカリバニズム…?? ぐらぐらする頭の中に「また悩み一つ出来たんじゃない?」とどこか楽しそうな精市くんの声が響いた。あ、悪魔だ………。 「な、なっ、なぁっ?!」 「あー、楽しかった。なまえさん吃驚しすぎ」 「たのっ!? か、噛んだ…!」 「ふふ、キスより刺激的だったでしょ」 「色々と方向性のつかめぬ刺激ですが」 「言ったじゃない…痛いことするよ、って」 (その意味を知るのは) お互いに |