ツムツム王者 | ナノ
×


ああもう!…聞こえてきた声に参考書を捲る手を止める。声をあげた主を見れば同じように参考書のページを捲っているところだった。

「どないしたん」
「もうやだ!」
「あと1ページやん、すぐ終わるって」
「違うよ!」

励ますように声をかけるが、すごい剣幕で反論されてしまった。こわ…!

「これだから乾燥肌は困る」
「ああ、指切ったんか?大丈夫か?」

あれ地味に痛いよな、なんて苦笑いを浮かべつつ名字の手を掴んだ。

「俺もよお人差し指やられるからわかるわ…ってあれ血出てへんやん」
「き、切ってないもん」

熱い火に触られたように慌てて手を引っ込めた名字が、両手を摩りながら恥ずかしそうに呟く。
やましい気持ちがあったわけではないが、無遠慮に彼女の手を握ってしまった自分に気付いて、中途半端に投げ出されていた手を引っ込めた。

「手が乾燥して、ページがうまく捲れないの…!」

何だそんなこと…とは流石に後が怖いので口には出来ず、代わりにページを捲ってやる。名字はイライラを隠しもせずにぶつぶつ小言を言いながらハンドクリームを取り出していた。他にしてやれることもないと判断して、再び参考書と向き合う。目の前に広がる文字を見ていたら欠伸が漏れた。それを噛み殺しつつシャーペンを握った途端、ぶちゅり、ぶぴゅり、なんて空気と共に何かが噴き出したような不快な音が聞こえてくる。その直後に聞こえてきた悲鳴に顔を顰めつつ音がした方を向けば、今にも泣き出しそうな顔をする隣人と目が合った。
目が合ったが最後、泣きつくような声で俺の名前を呼びながら、液体まみれでドロドロになった両手と共に助けを求めてきた。

「マジ最悪…」
「えげつな…」

ハンドクリームを塗ろうとしたところ、勢いよく中身が出てきてしまいクリームまみれになってしまったようだ。

「ほんと勿体ない、これお気に入りなのに」

未だに有り余るそれを消化できずにいる名字が大きなため息を吐く。悪態も一緒に。

「あ、これって」

何かいい対処法でも思いついたと思ったのか、落胆していた名字が目を輝かせてこちらを向く。その液体どうするって、水で流してきたらええんちゃう?あ、アカン?ほな諦めや、ってちゃうわ、俺が言いたいのは

「この匂い名字のやったんやな」

時折名字からするどこか懐かしい甘く優しい香りの正体は、彼女が愛用しているハンドクリームだったらしい。日ごろの疑問が解けて頭の中がスッと軽くなる。スッキリしたわ。一人で納得してないでどうするか考えてよ!なんて隣人が怒っているが俺にどうしろというのか。

「その匂い…好きやわ」

名字の目が見開かれる。つられてこっちまで目を見張ってしまった。変なことを口走ってしまったかもしれない。

「や、あの、匂い、匂いが!好みっちゅー話で…」

名字はこちらを凝視したまま動かない。その姿が焦燥感をますます加速させた。いや、俺別に変なこと言うてへんよな!?別にお前のこと好きとか言ってへんから、好きとか…!思ってても言ってへんよな!?
視線をうろうろさせてみるが、視界に映るのは名字か名字のクリームまみれの手のどちらかだ。何をそんなに焦っているのか解らなくなってきた頃、名字が口をゆっくり開いた。

「本当?」
「えっ?」
「そっか…」

何がそっかなんだ。今度は俺が何を一人で納得してるんだと凝視する番だった。何がや、そう聞き返したが、その声はほとんど遮られて彼女には届かずに終わった。当の本人は1人うんうんと頷いている。いや意味わかりませんけど。

「それなら問題ないね」
「は? 何が」

独り言ともとれる言い方をした名字の言葉の意味を訊ねようと口を開いた瞬間、今までより近くに甘く優しい香りが鼻をかすめる。名字の意図に気付いた時には既に手遅れで、机の上に無防備に放り出されていた手は彼女のそれによって拘束されてしまっていた。

「なッ!?」
「匂いって好みがあるけど、忍足がこれ嫌いじゃなくてよかったよ」

もらってもーらお、なんて声を弾ませながら名字が指を絡ませてくる。
互いの指の間にクリームが滑り込み、ねっとりと絡みつく。名字ひとりでは使い切れなかったクリームを、俺の手にすり込むように動かされ、その動きにだんだんと耳が熱くなる。ヌルヌルとした感触にぞわぞわと肌が粟立った。そんな俺に構うことなく、自分よりも小さく柔らかい手はまるでマッサージでも施しているかのように俺の手を撫で続けている。

「あ、あ…あ、」

言葉が喉の奥に引っ込んで出てこない。なんとも言い難い感覚に身をよじる。
指の付け根を擦られた瞬間、ひときわ大きく体が跳ねた。
アカンアカンアカン!何やこれ!?
名字の指の腹が手首を撫でるのと同時に、煩悩を振り払うように頭を強く振りその勢いのまま立ち上がる。目を丸くさせながら、どうしたのと言う。どうしたのちゃうわ!首傾げんな!可愛くないわ!

「いや、かわい……!」

声にするつもりのなかった言葉を寸のところで飲み込むように手で口元を覆う。さっきよりもずっと近くに、名字の匂いが鼻孔に届き更に顔に熱が集まった。

「お、忍足…どうしたの?」

落ち着こう、落ち着くんや。一旦落ち着かな。大きく息を吸いながら両手で目を覆う。すると、目元にまで香りが移り、事態は余計悪化した。なんという負のループ。なんやこれなんなんこれ。
急に慌てだした俺を心配そうに見上げる名字に心臓が締め付けられるような感覚を覚え、耐え切れずにその場から逃げるように教室を飛び出す。

俺を呼び止める名字の声に気付いた白石も、同じように俺を呼ぶ。「あ!謙也、課題終わったんか?」うっさいわ!今そんな場合とちゃうねん!声にできないまま白石を通り過ぎる。
どこ行くんや、白石の言葉も静止も全部無視して誰もいない廊下を全速力で駆け抜けた。


「こ、こんなん…こんな…!」


マーキングと一緒やろ!




洗い流すか否かめっちゃ悩んでそう