歌舞伎蝶辞めます | ナノ
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仕事を辞めた。貯金ならある。物欲があまりない自分を尊敬したのはこの日が初めてではないだろうか。
夜の仕事を引退したついでに、高い家賃がもったいないのでマンションも引き払った。今日でこの家ともお別れだと思うと寂しい気もする。
一人にしては充分な広さだった。物自体が少ない(仕事で使うもの以外)私にはただ掃除するのが大変だくらいにしか思ってなかったのに、変なの。
ついに文字通り身一つになってしまった。金ならまだあるけど。むしろ私には金しかない。しかも額はそこまで高くないときた…。
ただ子供が生まれるまでにしなきゃいけないことは山ほどある。今はまだ金銭的に余裕があっても、この金が永遠にあるわけではない。新しい仕事を探さないと生きていけない。
―――その前に、家を探さないと。



何かしていないと、落ち着かない。体がだるい。でも動いていないと、ズキズキとした痛みに襲われるのだ。
どこが痛いのかわからない。頭が痛いお腹が痛い。心が痛い。全部痛い。

「不動産でも見てくるかなぁ」

引き払っておいてなんだけど、まだ新しい家を見つけていなかった。とにかくこのマンションの家賃は高い、安いところに引っ越そう!そう決めてからが早かった。早すぎた。
まさか順番を間違えるなんて。なにやってんだか………。盛大なため息を吐く。空回ってばかりいる気がする。

「その前に要らないもの質屋に持ってくかな!」

遅めの朝食を済ませ、紙袋がパンパンになるくらい仕事で使っていたアクセサリーやドレスを詰め込んでいく。
お客からもらってそのままの物が結構ある。このドレス高かったんだよね…このピアスもこのネックレスも…。
手放すとなると少し名残惜しい気もするけど、ここは心を鬼にしてきっぱりとさよならしなければ。ああでもこのネックレスだけは超超お気に入りだから手元に取っておこう、一つくらいいいよね!




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「ふんふんふーん」


家から質屋まで、両手に持てるだけの紙袋を運ぶのは正直しんどかったけど、結構な額になったから持ってきてよかったなあ。
お客さんからもらってそのままの状態のアクセサリーやブランド物が多かったのがよかったな。
質屋から受け取った諭吉を1枚、2枚、と数えていく。舞い上がりそう。このままスキップして帰りたい気分。あ、帰る家なかったわ。


「まっさかこんなに諭吉をゲットできるなんて…ラッキー」


諭吉を封筒にしまい、そのままカバンに入れようとしたところで後ろから誰かに押された。
前のめりに倒れ、受け身を取った右手が熱い。絶対これ擦り剥けた…。

「ちょっと!どこ見て歩いてんのよ!」

ぶつかってきた相手を睨み付ける。ひょろそうな体の若い男が私を見下していた。その男は私のそばに落ちたカバンを拾いそのまま私に投げつけてきた。

「ちょ、なにすッ…!」

なんなのよ!ぶつかってきたと思ったら自分のカバン顔面に投げつけられるし!謝りもしないで逃げてくし!
逃げてく…………

「って、あーーー!!!」

私の諭吉ーーーーーー!!!

ひったくりにあったって気づくのが遅すぎた。目の前を走っていた男は前方にある信号を渡り終え、すでに小さくなっている。信号も赤に変わり、車で視界が遮られてしまった。

「…うそでしょ…」

唖然としてその場を動くことができなかった。しばらくたってからジンジンとした熱っぽい痛みが右手から伝わり、ようやく意識が戻ってきた。本当はほんの数秒のことだったのかもしれない。けれどそこに長いこと座り込んでいたような感じがした。

右手すりむくし、着物は汚れるし、ぶつかられた肩だって、転んでぶつけた足だって痛い。おまけにお金すられるし。もう!!!!最悪!最の悪だよ!!!
ちらばってしまったカバンの中身を適当に拾い上げてカバンに投げ入れる。

右手の手のひらを見る。親指の付け根から手首まですりむいていた。砂と血でよごれてしまった。痛い。傷口が熱を持っている。
じわり、目の前が涙でゆがむ。悔しい。悔しい悔しい。なんで私ばっかこんな目にあうっていうの…。着物の袖を目に押し当てる。

あーもう、悔しい。あいつのことぶっ飛ばしてやりたい。10発くらい顔面にグーパンいれてやりたい。誰か今すぐ私の目の前に連れてきてよ。ホント!諭吉半分あげるからさあ!!

「あーあーあー、ひっでぇなぁ」
「えっ」

擦りむいた右手を掴まれる。パッと顔をあげれば苦笑いしてる銀さんがいた。

「なん、で…」

最悪の上はなんていうのかしら。こんなボロボロのところを見られるなんて…。最最最悪だ。

「大丈夫か?」

ホラ、なんて言いながら立たされる。

「…大丈夫じゃない…ちっとも大丈夫じゃないよ…」

ボロ雑巾みたいになってるところを見られるなんて、全然ちっとも大丈夫じゃない。頑張って虚勢を張っていると再び大丈夫かと訊かれる。

「なんともねーのかよ」

銀さんの手が優しく左手に添えられる。このとき私は初めて自分の左手がお腹を押さえていることに気付いた。

「だい、じょうぶっ…」

ぽろり。一粒涙がこぼれる。それを皮切りにぼとりぼとりと大粒になった涙が落ちてきた。
悲しいような、うれしいような、やっぱり悔しいような。胸の中がざわざわして落ち着かない。この感情を表す言葉を私は知らない。

大丈夫とは言ったが体中痛いし心も痛い(懐ともいう)のに変わりはなくて、このもやもやしたものの正体がわからない不安も相まって子供のように、痛い痛いと大声で泣き出す私に、「いたくなーいいたくなーい!ほーらどっか飛んでっただろ?!なんならその痛いの銀さんがもらっちゃおうかなァァァァ!?」なんて慌て出すものだから泣きたいはずなのに泣けなくなってしまった。まるで子供をあやすような様に笑いがこぼれてしまう。

「頭ン中、ごちゃごちゃだよ…」

着物の袖で強めに目をこすったら、砂が顔についた。ああ、もう!