目の前に、師範がいる。
何故か自分との立ち位置に距離がぽっかり開いていて、それが妙に焦燥感に化せられて、慌てて縮めようとする私に師範は「来るな」と一言口を動かした。
でも師範の口が動くだけで、声は出なかった。
「・・・師範?」
そう問えば、師範はゆっくり首を横に振って見せた。
「 」
そしてまた私に向かって口を動かすのだ。
だが師範がこの時なんて言ったのか、私にはわからなかった。
そのたった三文字の言葉が。
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「奏」
そう名前を呼ばれハッと現実世界へ意識が戻る。
同時に右目尻から一粒の涙か伝っては耳元を濡らした。広がる視界には古小屋の天井と心配そうな表情を浮かべた杏寿郎の顔が支配する。
すぐ傍に師範がいる。
奏は内心胸を撫で下ろした。
「悪い夢でも見たのか」
「・・・師範が出てきてくれました」
「!そうか!」
それを聞いた杏寿郎はどこか嬉しそうな声を発した。
「師範が、」
「俺が何だ!」
「・・・師範が夢で私に何と言ったのか、わかりませんでした。三文字の言葉が」
「・・・・・・」
夢の中の彼が妙に奏の中に引っかかっては、嫌な予感が胸中に広がり不安が支配していく。普通の夢じゃ、ない。何か重要な気がするのだ。
表情を曇らせる奏に気付いた杏寿郎は明るく続けた。
「夢の中の俺のことはわからんが、現実の俺ならばきっとこう言っただろう!」
「?」
「"好きだ"!」
「丁度三文字だろう!」そうはにかんで見せた杏寿郎に、奏は面食らった。初めて言われる言葉ではないのに、今この時に言われるこの言葉が一瞬にして奏の中を幸せで満たせた。
ああ、自分はやはりこの人がいないと生きていけないと改めて思った瞬間でもあった。
「・・・私もです」
「うむ!」
彼に触れようと手を伸ばせば、師範はすぐにその手を取っては優しく包んでくれた。大きな手から伝わる体温がとても温かく心地よい。にっこり笑う彼は初めて出会った時から、何も変わらない。これからもずっと変わらないで欲しいと刹那に思った。
任務中ということを忘れて、触れるだけの接吻を彼へと送った。
灯火 第二十一話:永久凍土の火の海
吹雪も治まり、杏寿郎と奏は小屋を後にした。日が沈み辺りは薄暗くなり、山中ということもあって何とも言えない不気味さが漂っている。
「鬼がいつ出てくるかわからん。気を引き締めろ」
「はい」
庇うようにして前を歩くその大きい背中に、奏は後方を警戒しながら続いた。
しばらく進むと、雪に埋もれた何人もの鬼殺隊士の遺体が辺りに転がっており、それを見た奏は拳を強く握りしめる。
遅かった。そう目線を逸らそうとした時。微かに動く隊士に気付き、奏は杏寿郎から離れ咄嗟に駆け寄ってしまった。
「奏!」
「まだ息があります!」
雪を払い落して上半身を起こしてやる。男性の隊士だった。息は微かにあるものの腹部からの出血が多く、このままでは出血多量で助からないと思った。
「奏!」再度杏寿郎からの呼び声にハッと振り返れば、こちらへ駆け寄る杏寿郎との間に突如吹雪の渦が現れ思わず目を瞑る。
瞬時に瞼を開けると、目前に杏寿郎の姿がなく冷や汗が頬を伝った。
「師範・・・・・・?」
辺りを見回すも、先程いた景色とは違って見えた。そして鬼の気配を察知し日輪刀の鞘に手をかける。師範の安否が頭を支配する中、必死に辺りを警戒し刀を抜き構える。すると背後から殺気を感じ、放たれた攻撃を瞬時に刀で防いだ。だが防ぎ切れなかった氷の針のようなものが頬を掠り血が頬を伝った。
「残念、柱の方は弟に取られたか」
声の方へ顔を向ければ、氷雪の攻撃を発してきた鬼がそこに佇んでいた。
「師範はどこだ」
「師範?ああ、柱のことか。奴なら私の弟が別次元で相手をしていることだろう」
「弟?」
どうやらもう一匹鬼がいるようだ。
早く目前の鬼を倒し師範の元へ行かなければならない。幸い氷雪能力に対し炎であるこちら側の方が戦況は有利だと感じた。だが、次々に繰り出される氷雪の攻撃に防ぐことしかままならず、攻めに踏み込めずにいた。天候を考えると全く戦況は有利ではなかったのだ。吹き荒れる吹雪を利用し、鬼は奏に攻めの隙を与えないようにしているのだ。
連続攻撃を防ぐ中、負傷した隊士を狙って放たれた氷の斬撃に瞬時に反応し飛び出すも、刀を構える隙がなく斬撃を左足首に喰らってしまい声にならない悲鳴を上げる。流れる血が白い雪を赤く染めた。痛みにめげそうになる。傍に師範がいないと戦いが怖くなる。刀を握る手が震えてしまう、
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「奏、立つんだ」
いつかの稽古の時。
膝を付いて息を切らす私に向かって、師範は続けた。
「最近のお前の剣技からは不安や迷いを感じる。以前の方が勢いがあった!どうした!」
「・・・私は、師範が隣にいてくれないと不安になります」
「・・・・・・」
「師範のことが気になって、不安になって、刀を握れなくなる時があります」
「・・・気持ちはわかる。俺もお前の身の安全が気になってばかりだが、お前は俺のために戦っているわけではないだろう。もしまだ俺を守るために、などと考えているなら今ここでその考えを捨てろ!」
図星だった。
自分は結局師範のために、師範を守るために隊士になって刀を握ることを選んだのだから。俯く私の肩に、師範は優しく手を置いて続けた。
「お前は弱くない、強い!強い者の責務は、弱き人を助けることだ!お前は俺の自慢の継子だ!俺のことは気にせずその責務を全うしろ!」
「・・・・・・」
「奏、俺が傍にいなくとも心を強く持て!」
そうにっこり笑んだ彼の顔が、その日から脳裏に焼き付いて消えることはなかった。ずっと。
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弱き人を助ける責務。
今ここで私が倒れてしまえば、負傷したこの隊士も死ぬことになるだろう。
ぐっと刀を強く握り返し、ふうっと深く呼吸をした。師範は、きっと大丈夫だ。私なんかよりも遥かに強い方なのだから。今だけは気にせず鬼を滅殺することだけを考えて集中しろ。
呼吸で左足首からの出血を遅らせ、奏はゆっくりと片足で立ち上がった。
師範のように、強い人でありたいと思った。
師範と同じように、責務を全うしたいと思った。
鬼の血鬼術で冷気を吸い込むと肺がどんどん凍てついてくるようで、徐々に呼吸が困難に陥って行った。早くしなければ自分も危ない。
次の攻撃が放たれ、炎の呼吸肆ノ型、盛炎のうねりで防いだ後、刀を大きく構え深く呼吸すると同時に、伍ノ型、炎虎で鬼に斬撃を食らわした。
炎の斬撃が鬼の首を斬り落とすも、同時に放たれた氷の刃が奏の右肩に深く抉れ傷を負った。
「痛ッ・・・」
集中が切れると右肩と左足首に負った傷から激痛が全身に走った。
足を引きずり倒れた隊士の元へ向かい、生死を確認する。まだ微かに息があり内心ほっとするも今の自分の負傷した腕では起こすことが困難であった。
すると微かに隊士の唇が動き、何かを言おうとしていることに気付き顔を近づける。
「ふ、たば・・・ふたば、」
「・・・聞いてます。何でしょうか」
「双葉に・・・伝えて、欲しい・・・・・・」
「はい・・・」
「愛してる・・・って・・・」
その言葉を聞いた瞬間、パンッと何かに弾かれたような感覚に陥った。
愛してる。
初めて聞く言葉だった。
愛してるって何ですか。そう聞き返そうとするも、隊士は既に息絶えていて胸に針が刺さるような痛みが走る。
「・・・・・・必ず、伝えます」
目前にある冷たい遺体に、涙腺が緩み涙が頬を伝って落ちた。