体が浮遊したような感覚にうっすら瞼を持ち上げると、目前に広がる光景は何とも目を覆いたくなるようなものであった。屋敷のようなこの場所は、至る箇所が崩壊しておりまるで模様の如く血痕が飛び散っている。その中、まず視界に入ったのは倒れ伏せっている冨岡義勇の姿であった。酷い怪我だ。すぐに手当てしないと。「大丈夫か」そう言葉を発するも、声が出ない。そこでこれは夢の中なのだと実感した。冨岡から視線を上げると少し離れたところに血塗れで倒れている人物を見つけて、俺の時が止まった。

 奏だ。
 震える足で駆け寄っては傍らに跪く。抱き上げたくとも彼女に触れることができず、虚しさだけが広がった。左腕が、ない。そこから流れる夥しい血の量に、胸が抉られるような痛みが走った。どうしてあげることもできず、ただただ傍観していることしかできない。


「・・・師、範・・・・・・・・・」


 俺を呼ぶ声にハッとする。
 顔を覗き込めば虚ろな瞳をした生気のない奏の唇がゆっくり動いた。それを必死で俺は聞き取ろうとする。


「・・・も・・・・・・すぐ、会い・・・き、ます・・・・・・」


 どういう意味なのか、理解できなかった。
 止血を今すぐしてやらなければ、奏は間もなく死んでしまうだろう。夢とは言え、無力な自分に拳を握り締める。触れられないとわかっていながらも、彼女の頭に手を乗せようと触れた瞬間。その手は空振ることなく、奏の頭に触れることができ一瞬戸惑った。


「生きろ。こんなところで死ぬんじゃない」
「――――・・・師範?」
「諦めるな、奏」


 触れられたのはほんの一瞬で、すぐにすり抜ける自分の手。そして霞んでいく視界に、現実への目覚めが近いのだろうと察する。これが未来の出来事なのか、ただの自分の不安から出来上がった夢なのかわからないが、どうか奏が無事であるようにと刹那に祈った。
 薄れゆく意識と視界の中、ゆらりと立ち上がった冨岡がこちらへ近づいてくるのを見て少し安心した。きっと、彼が奏を助けてくれるだろう、と。






「―――・・・夢、なのか」


 意識が現実へと戻される。何とも嫌な夢である。
 途端に体に感じる重みに視線を斜め下へ向ければ、自分の腕の中で寝息を立てて眠っている奏の姿があった。よかった、彼女はここにいる。内心胸を撫で下ろす。そっと前髪に触れると、ゆっくり開かれた澄んだ瞳と視線が交わう。彼女は俺を見ると小さく笑んだ後、両腕を首に回しぎゅっと抱きついてきた。


「師範、おはようございます」
「・・・おはよう」


 愛しさで胸がいっぱいになる。華奢なその背中に腕を回し、俺も精一杯彼女を抱き締めた。




灯火 第十九話:燈の光か、照らした懐




「え?料理を教えて欲しい?」
「うん」


 稽古の後。
 居間にいた千寿郎を捕まえて、奏は料理を教えて欲しいと申し出た。一瞬呆気に取られるも千寿郎はすぐに表情を柔らかくし、快くそれを引き受けることにした。


「とは言っても、俺も大した腕ではないですが・・・」
「そんなことない。千寿郎の料理も洋菓子もとっても美味しいよ。師範もいつもうまいうまいって食べてくれてる」
「ありがとうございます・・・それくらいしか兄上と奏さんにしてあげられないので・・・」
「私も千寿郎のように美味しいものを作って師範に食べてもらいたいの」
「きっと奏さんの手料理なら、兄上ももっと喜んで食べてくれますよ」
「うん・・・」


 頬をほんのり赤く染めて、小さく頷く彼女が千寿郎は素直に可愛いと思った。本当に、兄上のことが好きなんだなと改めて思わされた瞬間でもある。自分が彼女の役に立てるのであるなら本望であるし、喜んで教えてあげようと思った。


「兄はさつまいもの味噌汁が好物ですよ」
「さつまいもの味噌汁・・・」
「味噌汁は簡単なようで実は味付けが奥深くて難しいですが、俺が手伝うので一緒に作ってみましょうか」


 にこりと笑う千寿郎を見て、心が温かくなる。
 そして自分の作ったものを、うまいと言って食べる杏寿郎の顔を思い浮かべるだけで口元が緩んだ。


「ううん、私一人で作りたい」
「え・・・だ、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」


 全然大丈夫ではないが、千寿郎に手伝ってもらい作っては意味がないと思った。作り方だけ教わり、さつまいもの味噌汁だけは奏が一人で作ることになった。他の料理を作る千寿郎の横で、全集中で味噌汁作りに励む。そんな奏の姿を千寿郎は始終不安げに見守っていた。






 夜。
 愼寿郎抜きの三人で食卓を囲う中。
 談笑する兄弟に挟まれながら、奏は一人緊張した面持ちで箸を握っていた。杏寿郎が味噌汁に口をつけるのを今か今かとどきまぎしながら待ちわび、その様子に気付いていた千寿郎が兄に声をかける。


「兄上、今日の味噌汁は奏さんが作ってくれたのですよ」
「む!そうなのか!」
「兄上の好物だからって、さつまいもの味噌汁を」
「ありがとう!いただきます」


 杏寿郎と千寿郎は同時に味噌汁の入ったお椀に口付けた。
 口内に広がるしょっぱさと何処から来るのか苦味に千寿郎はむせそうになるのを何とか堪える。作りたくはないが眉間に寄ってしまう皺を誤魔化そうとするも厳しかった。
 兄は、大丈夫だろうか。ちらりと向かい席に座る杏寿郎の顔色を伺う。


「うむ、うまいな!」


 そう満面の笑みで味噌汁を啜る兄に、千寿郎は絶句した。
 兄が味覚音痴ではないことを自分はよく知っている。むしろ自分よりも味がわかる方であると思う。なのに、うまいと笑って食す兄の懐の広さを目の当たりにして心から尊敬した。

 己が作った味噌汁の味を知らない奏は、杏寿郎の様子に安堵したように表情を柔らかくした。だが後に自分が味噌汁を口にした時、初めてそれが美味ではないことを知ってしまい、それでもうまいと言って食べてくれた杏寿郎の懐の広さを改めて知るのであった。



「・・・すみません、師範」


 床に就く前、奏は杏寿郎に頭を下げた。
 何のことか純粋にわかっていない彼は小首を傾げる。


「どうした、謝れる覚えはないぞ」
「・・・さつまいもの味噌汁、不味かったでしょう。私に気遣ってうまいって食べてくださったんですよね・・・お腹壊していないですか」


 きょとんとする彼の筋肉質な腹部にそっと手を添える。
 すると頭上から大きい声が降りかかった。


「不味くなどなかった!ただ味が少し濃かっただけだ!十分うまかった!腹を壊すわけないだろう!俺の好物を頑張って作ってくれたお前の気持ちが愛おしく思った。また次も作ってくれ!」


 その杏寿郎の言葉に、奏は固まった。
 どうしてこの人は、こんなにもできた人間なのだろうか。どこまでも優しい。決して他人を不快な気持ちにはさせない。どこまでも心が温かい。

 どうしたら、この人のような人間になれるだろうか。


「・・・何故、泣くんだ」


 困ったような声色と、頬に触れ涙を拭う指先に申し訳なく思う。


「・・・すみません」
「謝るな、顔を上げて」


 頬に添えられた彼の手に、自分の手を重ねた。ゆっくり近づいてくる杏寿郎の唇は、奏の額に優しく触れる。

 愛おしい。目前で優しく微笑む師に、やり場のない熱い気持ちが溢れ出す。咄嗟に杏寿郎の首に腕を回してしがみつくように抱きついた。そんな奏の体を杏寿郎は優しく受け止めてやる。
 そして彼は続けた。


「・・・俺は幸せ者だ!」
「え?」
「父上も千寿郎もいて、お前もいて。愛しい人が自分のために何かをしてくれる。それはとても幸せで贅沢なことだと俺は思う」
「・・・・・・」
「だから、ありがとう奏!」
「いえ・・・私は師範に何もできていません」
「俺はお前からたくさんのものをもらっている。感謝しきれん!」
「それは私の方ですよ、師範に色んなことを教えてもらって、導いてくれて・・・一生感謝しきれません。どう恩返しすればいいかいつも悩んでます」
「恩返しなどいらん!お前が無事で笑ってくれるなら俺はそれだけで十分だ!」
「・・・そんなことで、いいんですか」
「む、そうだな・・・それなら一つ約束をしてくれないか」
「約束?」
「どんな状況下でも決して諦めるな。俺が傍にいなくとも、心を強く持て」


 この時、杏寿郎の頭の中には今朝見た夢の光景が広がっていた。鬼との戦闘中常に彼女に傍にいられるとは限らない。寧ろいられない状況の方が多いだろう。その時、心細くなっても、厳しい状況下で助けてあげれなくても、諦めないで欲しいと思った。


「傍に、いてくれないんですか」


 そんなか細い声を聞いて、眉を落とす。


「・・・そういう意味じゃない。可能な限り俺は奏の傍にいる」
「なら・・・・・・そんな状況下のこと考えたくないです。師範が傍にいてくれるなら、私は諦めません」
「では俺がいない時は、お前は諦めるということか」
「・・・いないなんて、ありえません」
「・・・奏は約束を、交わしてくれないのか」
「・・・・・・」
「それは、残念だ」


 俯く彼女を尻目に、俺はあからさまな態度を取る。布団に潜り背中を向けた。予想通り奏は焦ったようにそんな俺の肩に手を置いて「師範」と軽く揺さぶってきた。


「気を悪くされたならすみません・・・でも考えたくないんです。師範が傍にいないなんてこと・・・でも、でも師範がそう約束して欲しいと言うなら、約束します。だから怒らないでください・・・」


 珍しく必死な声色に思わず小さく笑い声を上げてしまった。そんな杏寿郎がどんな表情をしているのかわからず奏は困惑する。すると一瞬のうちに起き上がった杏寿郎に腕を掴まれ布団の中に引き込まれては視界が彼の胸板でいっぱいになった。


「可愛いな」
「!」
「・・・どうか、俺とのこの約束を守ってくれ奏」


 柔らかい髪を撫でて、照れるその愛しい彼女の額に口付けた。どうかあの夢が現実にならないことを祈って。

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