「奏、能を観に行かないか!」


 非番の日。
 杏寿郎からそう誘われ奏は小首を傾げる。
 師が袴ではなく綺麗な着物に身を包んでいるところを見ると、恐らく自分が行く行かないにしろ彼は能とやらを観賞しに出かけるつもりなのだろうと察した。


「そうか、能を知らんか。この機に一度観てみると良い!きっとお前も気に入るはずだ!」
「師範はその能とやらがお好きなのですか」
「うむ、とても好きだ!」


 それを聞いて奏の答えは一つしかない。
 師がとても好きだというのならば、自分も共有する他なかった。


「お供させて頂きます」
「そうか!ならば俺について来い」


 そう手を引かれ、彼の自室へと招かれる。杏寿郎が何処かウキウキしたような様子で箪笥から大きな包みを取り出しそれを奏へと手渡した。


「これは?」
「俺が昔母上から授かった着物だ。いつか大切な女性ができた時に渡すように言われた物だ!」
「・・・!」
「その女性に当たるのは奏、お前しかいない。受け取ってくれ」


 杏寿郎のその言葉に感激し、どう反応すべきか頭が追い付かなかった。そんな奏の様子に杏寿郎はふっと小さく笑むと、代わりに包みを開き綺麗に折り畳んであった着物を広げて見せる。

 その着物は淡い暖色に染まり金色の花模様の入った何とも高級そうな着物であった。自分には勿体無い代物である。


「わ、私には勿体無いです」
「そう言うな。お前の他に渡したい女性はいない。それに勿体無くなどない。奏に相応しい着物だ」
「でも・・・」
「なら俺が他の女性に渡してしまってもいいのか!それならば仕方ない、甘露寺に渡しに行くとしよう!」
「!駄目です!」


 真に受ける奏の反応に、杏寿郎は笑った。
 意地の悪い。おずおずとその着物を受け取るも、彼女は俯いた。その頭を撫でてやりながら「着替えておいで」と促すも動こうとしない奏に杏寿郎は首を傾げる。

 「・・・師範、」小さく自分を呼ぶ彼女を待ってやる。だが少し間を空けた後続けた奏の言葉を聞いて杏寿郎は耳を疑った。


「師範が着せてくださいませんか」
「・・・・・・・・・」


 モジモジと恥じらうように頬を赤らめてそう言った奏を前に、一瞬何と言われたのか頭の処理が追い付かずフリーズする。今、何と言ったか。冷静になって考える。着せてくれと確かにそう言った。俺に、着せてくれと。

 理解した途端熱を帯びる己の顔。


「・・・師範?」
「・・・お前には困らされてばかりだ」
「す、すみません」
「後ろを向いて」


 穏やかな優しい声色。それを聞いただけでも鼓動が煩く鳴る。指示通り杏寿郎に背中を向けると、彼の手が肩に触れ次に帯へと移りそれを解かれる。その手つきに心臓がドキドキした。緩んだ着物を優しく剥ぎ取られ襦袢姿になった奏の後ろ姿を杏寿郎は眺めた。

 華奢な背中。だが同時に最前線にていつも自分の背中を安心して任せられる頼もしい背中でもある。思えば自分から彼女に触れることは、あまりなかった。

 そっと腕を伸ばし、背後からその背中を抱き締めてやる。そんな杏寿郎の突然の抱擁に奏は戸惑った。


「奏・・・」
「あ・・・・・・」


 耳元で名を呼ばれるだけで反応する体。胸前で組まれた杏寿郎の腕に手を添える。背中に当たる彼の分厚い胸板から伝わる鼓動が速く、自分のそれも速くなる。

 彼の腕に納まったまま、後ろの杏寿郎に向き合うように体を動かし彼の首にしがみつく。


「・・・師範、好きです」
「・・・いつも先に言われてしまうな」
「離れたくないです」
「大丈夫だ、俺はここにいる」


 「奏の隣にいる」そう続けた杏寿郎に接吻する。最初から舌を捻じ込み絡ませて息をするのも忘れてしまう程お互い夢中になった。頭がぼうっとしていく。瞼を薄っすら開くと奏の蕩けるような目と視線が交わう。その眼差しにゾクリとする。

 このままではやばいと、杏寿郎は奏を放した。


「・・・いかん、歯止めが効かなくなってしまう」
「私に歯止めなんていらないです」
「だが本来の目的を忘れるところだった!能を観に行くのだろう!時間がなくなってしまう!」
「では能から戻ったら続きをしましょうね、杏寿郎さん」


 そうにっこり笑う彼女に面食らう。
 能を観に行きたい気持ちも満々だが今すぐ彼女を押し倒したい衝動に化せられなんとか堪える。そんな杏寿郎を知らずに「師範、早く着物を着せてください」と既に切り替えている奏は流石というか何というか。杏寿郎は腑に落ちないまま着物を着せて帯を締めてやった。

 改めて母上から授かった着物を身に纏った奏を見ると、何とも美しく似合っていた。


「うむ!とても似合っているな!きっと母上も喜んでくれているに違いない」
「ふふ、ありがとうございます」


 それから奏は一度自室へ戻り、鏡に向かって化粧を施した。宇髄からの入り知恵である。せっかくの杏寿郎との外出なのだ。髪も櫛で整え、宇髄と会った時に購入していた口紅をすうっと唇の上に乗せた。

 そして杏寿郎の待つ居間へと足を運ぶ。

 「お待たせしました」そうやってきた奏に杏寿郎とその隣にいた千寿郎は振り向く。綺麗に化粧を施した奏に杏寿郎は見惚れ、千寿郎は感嘆の声を上げた。


「わあ、奏さんとてもお綺麗です!」
「千寿郎ありがとう」
「ね?兄上」
「・・・ああ、そうだな。他の者の目に触れさせるのが惜しいくらいだ」


 杏寿郎のその一言に頬が熱くなる。
 照れ隠しに奏は千寿郎へ声をかけた。


「千寿郎も一緒に能を観に行かない?」
「いえ、俺のことは気にせず兄上と二人で行ってきてください」
「すまんな千寿郎。父上と留守番を頼む」
「はい、お二人ともお気をつけて。いってらっしゃい」


 千寿郎に見送られながら、杏寿郎と奏は煉獄家を後にした。少し後ろを歩く奏に杏寿郎は一度足を止め、彼女の右手を取ると歩幅を合わせて歩みを再開させる。そんな師の気遣いにもほっこりしながら、奏はその手をぎゅっと握り返した。

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