「師範、どこへ行かれるのですか」


 昼間、宇髄に飲みに行かないかと誘われたその日の夜。隊服を脱ぎ着物へと着替え待ち合わせ場所へと向かおうとする杏寿郎の背中を奏は呼び止めた。

 隊服を着ていないせいか、いつもと違う雰囲気を漂わせている師範は誰が見ても好青年に映ることだろう。


「友人と約束があってな。少し出てくる」
「・・・私もお供したいです」


 そう小さく懇願した奏に杏寿郎は「いいだろう!」と危うく反射的に言ってしまうところをなんとか堪える。


"継子ねぇ・・・継子に留めとくには勿体ねぇくらい別嬪だったな。"


 昼間そういった宇髄の言葉が頭を過り、何となく奏を宇髄と会わせたくないと思った。

 杏寿郎は彼女に向き合い小さく首を横に振る。


「男同士の席だ!積もる話もある。夜が明ける前には帰る!」
「・・・・・・」
「奏はお留守番だ!」
「・・・はい、お気をつけて」
「うむ!」


 そう言って杏寿郎が出かけてから数時間が経った真夜中。
 師範は一向に帰ってくる気配がなかった。

 身に何かあったのではないかと不安になった奏は床から出ては千寿郎の元へと足を運び、布団に包まって眠っている彼の体を強く揺さぶった。


「千寿郎、起きて」
「んぅ・・・・・・」
「師範はどこに行ったの?帰ってこない」
「んんっ・・・兄上ですか・・・?確か柱の方と飲みに行くと言っていましたよ・・・」
「何を飲むの?」
「お酒ですよ・・・奏さん寝かせてください・・・」


 お酒。
 師範はお酒を飲みにわざわざ出向いているのか。家にお酒はあるし、家で飲めばいい物を。

 再び寝息を立て始める千寿郎を尻目に、奏は師の帰りをこのまま待つことにした。千寿郎が勧めてくれた小説という書物に似た読み物を手に、縁側へと腰かける。

 月の光に照らされた文章を目で追いながら、そこに登場する人物を師範と重ねていた。内容は恋愛物である。こうやって小説を通すことで、更に奏の感情を豊かにさせる手段となっていた。


"奏さんは、やはり兄上のことが好きなのです。ただその好きはさっき俺が言ったものとは少し意味が違いますが・・・きっとそのうち自分でわかる日が来ると思いますよ。"


 前に千寿郎から言われた言葉を思い出す。
 杏寿郎が十二鬼月を討伐し帰ってきた時と自分が最終選別を突破した時。杏寿郎に抱きしめられ彼の伝わる体温に心臓の鼓動が煩く鳴ったのをよく覚えている。今まで目を通してきた小説にも、似たような表現が記してあった。
 これが千寿郎の言う好きという感情なのか。未だよくわからなかった。


 気付けば夜が明け朝日が昇り始めようとするも、杏寿郎は帰ってこない。
 
 お酒を飲んでいるということならば、師範の身に危険は少ないことだろう。師範にも友人は当然いて、彼だけが知る世界があり私には知らない世界があるのだ。師範は一体どんな世界を見ているのだろうか。

 すると奏の鎹鴉が庭の塀に羽を休め、こちらを向いて一声鳴いた。それとほぼ同時に玄関の戸が開く音がし、杏寿郎が帰ってきたのだと腰を上げた。
 普通なら寝ていてもおかしくない時間帯だというのに、当たり前のように玄関まで迎え出た奏を見て杏寿郎は重たかった瞼を大きく開く。


「奏!起きていたのか」
「お帰りなさい師範」
「うむ、ただいま!」


 酔っているのか少しふらつく足取りで自分の横を通り抜けた師範からふわりと微かに上品な香りが漂い鼻腔を擽る。この香りは嗅ぎ覚えがある。金木犀の匂いだ。女性が香料として使うことが多いとされている。普段杏寿郎からこの匂いはしていないのに、何故今日はするのだろうか。

 台所で湯飲みに水を汲み喉を潤す杏寿郎に近づくと香りはより一層強く感じた。


「師範から女性の香りがします」
「!」


 その言葉に杏寿郎の肩が僅かに動く。
 よもや遊郭にいたあの短時間の間でも着物に香りが残るだなんて。
 杏寿郎は少し後悔した。


「・・・少々酒を飲む場に女子がいたからな。その時の残り香だろう」
「・・・そうですか」


 表情を曇らせ俯く奏に、杏寿郎は眉を八の字にする。
 彼女は続けた。


「その香り、私嫌いです」
「・・・・・・」


 金木犀の香りは奏の非道な過去を思い出させた。
 売られた先で男を悦ばせるための商品とされていた頃の記憶。その時この金木犀の匂いを体中につけられた。男を誘惑する香りだと教わったのだ。

 その香りが杏寿郎から漂っているということは、そういうことなのだろう。
 胸がズキリと痛んだ。

 すると「そうか!」師範の張りのある声が頭上から聞こえ、下げた顔を上げる。


「すまん!ならばすぐに脱いで着物は洗濯するとしよう!不快な思いをさせてしまって悪かった!」


 そう言って着物をその場で脱ぎ始める杏寿郎に、奏は慌てて頭を下げた。


「すみません師範・・・失礼な事を言ってしまいました」
「謝る必要はないだろう。気にするな。むしろ謝るのは俺の方だ!夜明け前には帰ると言っておきながらすっかり朝になってしまった。心配させただろう。すまない」
「いえ・・・」
「さて、俺は自室で一眠りする。奏も寝ていないのだろう?少し休みなさい」


 帯を緩めながらそう自室の襖を開ける杏寿郎の背中を黙って見送る。指示された通り一休みしようと奏も自室へと戻り手に持っていた小説を机の上に置いた。だがどうも杏寿郎から香ったあの匂いが頭を支配し、とても眠れる気分ではなかった。杏寿郎が自分の知らない女の人と供にいる構図が浮かんできて、奏の心を濁らせた。

 特に用はないが師範の自室へと足を運び襖越しに「師範」と声をかける。
 すると「どうした!」とすぐに元気な返事が返ってきた。まだ起きているようだ。


「・・・入ってもよろしいでしょうか」
「うむ、構わん」


 スッと襖を開ければ先程の着物を脱ぎ襦袢姿の杏寿郎は、床の上に敷かれた布団に寝ころんでいた。そんな彼の横に膝を付き正座をする。


「どうした、眠れないのか」
「はい、もう目が覚めてしまったので」
「そうか。だがしっかり休まないと昼の稽古に響いてしまうぞ!」
「心配いりません、大丈夫です。このまま師範のお傍にいさせて頂けないでしょうか」
「それでは暇だろう。書物でも持ってくるといい」
「いえ、師範の寝顔を見ていたいので結構です」
「俺の寝顔は見世物ではないぞ!」
「ふふ、そうですね。でも飽きないので・・・」


 そう小さく笑む我が継子を見つめる。
 その顔を見ると自然と口元が緩む。心地良い。安心する。彼女がいると。
 そして酒の影響もあり、睡魔が杏寿郎を襲った。重たい瞼をゆっくり下ろし寝息を立て始める師範の髪にそっと触れる。
 こうやって傍にいさせてもらえるだけで、奏は十分だと思っていた。


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