彼女は、よく笑った。
オレに気づくと、いつもすぐ「征ちゃん」と人懐っこい笑顔で嬉しそうに名前を呼んだ。
だから、自然と思っていたのだ。
奏は温かい環境で、温かい家庭で育ったのだろうと。
「その痣・・・どうしたんだ」
彼女の口端に出来た痛々しい青痣を見た時、自分の中で何か危険を知らせるように警報が鳴り響いた。
「征ちゃんには、関係ないよ」
いつも、そうだ。
お前はオレに何も言ってくれない。
オレは彼女のことを、知らなさすぎた。
12.匂い
昼休み。
小6になってから空いた教室の窓際の机で、奏と将棋を嗜む時間ができるようになった。
初心者な彼女に将棋を教えながら、それでも勝つのはオレで。ただ機嫌を損ねないようにわざと下手な手を打って負けてやることも極たまにあった。
「・・・奏の番だよ」
「・・・・・・」
「奏?」
反応がなく盤面から顔を上げてみる。
そこには頬を赤くしてどこか体調が優れなさそうな彼女の顔があった。
「・・・奏」
「・・・ん、あ、ごめんボーッとしてた」
「体調が優れないんだろう、無理しない方がいいよ」
「大丈夫・・・悪くないよ」
そうヘラりと笑ってみせる奏。
言ってもすぐ言うことを聞くタイプではないことは百も承知で。溜息をつき、それ以上何も言わず様子を見ることにした。
◇
放課後、クラブ活動。
「白鳥危ない!!」
1人の男子の叫び声にも似たその言葉に、ハッと慌てて彼女の姿を探した。フラフラした足取りでコート内にいた奏の後頭部目掛けてボールが飛んでくるのに気付いた時は、もう遅かった。
直撃したボールは、ゴンッと鈍い音と共に床に転がり彼女は前のめりに倒れ込み傍観していた誰もが慌てて駆け寄った。
「大丈夫か!?白鳥!」
「誰か先生呼んできて!」
「今って職員会議中じゃないっけ・・・」
「とりあえず保健室に連れていこう!」
そう1人の男子が前に出て奏に触れようとする。咄嗟にその手を掴んだ。
「オレが連れていくよ」
ぐったりと倒れ伏せた奏の体を起こし、膝下に腕を通して持ち上げた。
予想以上に軽いその身体に驚きを隠せなかった。
「悪ぃな赤司・・・」
「いや、大丈夫だ。それよりオレが抜けた穴の代役を頼むよ」
「わかった!」
と言いつつ、本当はただ誰にも彼女に触れてほしくなかっただけなのかもしれない。
彼女を抱えながら到着した保健室の扉を身体で押しながら開けるも、誰もいなかった。
とりあえず奏をベッドに座らせ、手際よくビニール袋に氷水を入れる。それを手にベッドの縁に座る彼女の隣に腰を下ろし、痛いであろう後頭部にそれを当ててやった。
「征ちゃん・・・ごめん・・・」
「大丈夫だよ。昼休みから具合が悪そうだったが・・・やっぱり風邪を引いたようだね」
そう空いた手を彼女の額に触れると、やはりかなり熱かった。昨日バケツを引っくり返しずぶ濡れになったことが引き金になって体調を崩したのでないかと思った。
「征ちゃんの手、冷たくて気持ちいい」
「いいか、今日はクラブ活動も中断して先に家に帰るんだ。両親にも連絡して迎えに来てもらった方がいいだろう」
「ううん・・・連絡しなくて大丈夫。誰も来ないから」
「・・・誰も来ないって?」
「私いらない子だから」
そう力なく呟いた彼女に戸惑った。
いらない子、とはどういうことなのだろうか。
「・・・でも帰った方がいいよ」
「いいの、ただもうちょっとだけこのままでいたい」
そう奏はオレの胸元に額をくっつけるように半分体重を預けてきた。ふわりと香るいい匂いが鼻腔をくすぐる。
「・・・征ちゃんの匂いは落ち着く」
「汗の匂いしかしないだろう」
「そんなことないよ、私の回復剤」
そう鼻ですうっとオレの胸元を吸い込む奏。
柔らかい髪が僅かにオレの首元を掠めて、鼓動が加速するのがわかった。
彼女の意識が朦朧としているのをいいことに、誘われるようにその髪に自分の口元を近付けて軽く押し当てた。
このまま時間が止まればいいのに。
そう思った。