「アオイがグラスを割った?」
女は少し驚きながらも、しかし心の中は妹への心配で埋め尽くされていた。
「ああ。珍しいこともあるものだと思ってな。何か最近おかしなことはなかったか?」
「いいえ……ああ、でも……」
「何かあったのか?」
「……最近、何かに悩んでいるそぶりはあるわね」
「そうか」
バーの閉店時間を過ぎ、客は一人として店内に残っていない。店主は外のシャッターを閉める為に出ており、もう一人の男は本日の売り上げを計算していた。
「ペタ、気付いているんでしょう?」
「何の話だ」
「幼い頃から好意的に見られていて、分からないはずがないもの」
計算機を叩く音が止み、女は小型テレビで流れるバラエティーを眺めながら、しかし男の反応を窺っていた。
「貴方程の人なら、気付かないわけがないでしょう?」
「……私は常々思っていたが、お前達姉妹は確信している物事を問う時の言い方がそっくりだな」
「褒め言葉として受け取っておくわね」
「褒めているつもりは微塵も無かったんだが」
一つ、深い溜息を吐く。男はグラスに入れた水を飲み、そしてノートを閉じた。計算は終わったらしい。
「私は別に、男性の心情なんてこれっぽっちも分からないし、知りたいとも思わないけどね」
「ファントムが泣くぞ」
「でも、あんなに可愛いアオイから好意を寄せられて、いくら色恋事に縁のない貴方でも落ちないはずがないと思うのだけど。ねえ?」
「それを問うて、仮に私が肯定したら、お前はどうするんだ?」
半分程度シャッターを閉じた店主が店内に戻ってくる。彼は何かを察したのか、そっとエプロンを脱いでカウンターの椅子の一つにかけた。その行動を男は視界にいれつつも、小型テレビをオフにする女の様子を窺う。
「アオイが幸せになると思うと、嬉しいわ」
そして女は、心底嬉しそうな笑みを浮かべて言いのけた。
男は思わず目を見開く。呆ける、とはこのことかと思うくらいに、男は女の返答に拍子抜けした。女の後ろにいた店主はクスクス笑っている。
「でも、その気が無いなら早くふってあげて」
「それは、妹を愛するお前が言っていい言葉ではないんじゃないか?」
「勿体ぶって答えを出さない方があの子は不幸せよ。私もそれは許さない。ペタの中で答えが出ていないならまだしも、ね」
「それはまるで、私はもう答えを出しているかのような口ぶりだ」
「さあ? どうでしょうね。私には分からないわ」
「じゃあ、とりあえず帰ろうか」
店主が言って二人は椅子から立ち上がる。薄暗い店内の灯りを完全に消して、戸を閉めるとシャッターを完全に下ろす。鍵をかけて、三人は家路についた。
2016.10.17
:
back :