09
ガチャンッ、と大きな音を立ててそれは割れる。少女の足元には、洗って拭ったグラスの割れた破片が散らばっていた。
「アオイ、大丈夫?」
店主の男がやってきて問う。それに少女は小さく頷いてしゃがみ込んだ。そして腕を伸ばし破片に触れようとする。
「あ、待って。そのまま触ったら危険だ。今箒と塵取り持ってくるから大人しくしてて」
掃除用具入れへ向かう店主に言われたが、少女はそれを見送るように視線を送ってから再び破片を見て、大きなそれを持ち上げた。透き通っていたグラスは、割れたせいで濁ったような印象を受ける。しかし、店内の照明に透かして見ればキラキラと光った。
「あっ! 触らないで言っただろう? ペタに怒られるよ」
「この場合、ファントムが自分の嫁に怒られるんじゃない?」
「やめて。チクらないでよ? アザミは君のことが絡むと怖いんだからね」
「ねえ、ファントム」
箒で破片を掃いて塵取りで拾っていく。広げた新聞紙の上に全ての破片を乗せていった。大きい物は手で拾わなくてはならないが、それも軍手を着けて慎重に拾っていった。そんな店主に少女は問う。
「どうして結婚したの」
少女の問いに店主は一瞬、素っ頓狂な顔をした。このタイミングで問われるとは思わなかったのだろう。しかし、それを問われること自体は予測出来ていた。
「僕は、面白いことが好きなんだよ」
「はあ?」
「今、心の底から理解出来ないって声だった」
「いや、ごめん。つい」
「いいよ。アオイは素直だよね、僕に対して」
そんなつもりは無かった少女は、言われて少し戸惑う。少女自身は自分を捻くれ者と思っていた。それは、本心を隠し、自身を偽ることが多いから。けれど、こうしてカフェの仕事をしている時の少女はとても素直だ。勿論、接客中は出来るだけ物腰を柔らかくするよう心掛けているが、店主の男と接することが多かったせいか、彼に対してはとても砕けている。
よく考えれば確かにそうだ、と内心納得した少女は店主に言葉の続きを促した。
「アザミは可愛いよ。いつも前を向いているんだ。そしてそこには大抵、君がいるんだよ」
「そこが理解出来ないの。あの姉は私に自身最大の愛情を注ぐでしょう? そんな女と結婚したがる理由が、私には分からないのよ」
「僕が結婚を申し込んだ時、アザミも同じようなことを言っていたよ。心底理解できないって顔でね」
思わず自分の顔を触る。触ったところで表情など分かりもしないのだが。その行動に店主は小さく笑って尚も話し続ける。
「アザミの行き過ぎた君への愛情は、他に愛情を向ける対象がいなかったからだと思うんだよね」
「……それは、つまり、私以外に好きになるような存在がいなかったから、あの姉の中にある莫大な愛情が全て私に集中している、と?」
「まあ、大体そんなところかな。僕の予想だけどね。だから結構アプローチしていたんだけど、アザミの最優先は君だし、アザミがする言動って言うのは必ず君に関係してる。こりゃあ僕に勝ち目はないなって思ったわけさ」
「それでどう結婚にまで発展するのかしら……」
「彼女の最優先を優先するんだよ」
今度こそ少女は、心底理解出来ないと言った表情を浮かべた。店主は拾ったグラスの破片を新聞紙で包み、ガムテーブで厳重にぐるぐる巻きにする。そこまでしなくても、と少女は口を挟むが、店主はそれを袋の中に入れた。
「最優先は私だから、ファントムも私を優先するってこと?」
「違う、違う。あくまで僕が優先するのは自分のこととアザミのことだけだよ。時点でペタと義妹である君さ。そしてその下にバイトの皆が入るかな」
「じゃあどういう意味なの?」
「アザミの最優先を邪魔しないって言ったら分かるかな? アザミがアオイを優先することに、僕は異議を唱えない。そう言ったら彼女は考えだした。そして極めつけはこれだ」
キュッと袋の端を結ぶ。空気が少し入った袋は膨らんでおり、こんなキャラクターがいたような気がする、なんて少女は思った。
「僕を利用すればいいって言ったんだ」
少女は理解出来なかった。好きな人に利用されてどうして笑っていられるのか。何れは捨てられるかもしれないのに。そう思ってしまうから。
「僕はね、ずっと思っていたんだよ。君の家……屋敷は色々おかしいし、僕らを連れて行ったアザミもおかしい。そして、感情を表に出さず、内側に恋心を秘める君も、子供にしてはおかしい」
「失礼ね」
「うん。でも、最近少し分かったことがあるんだ」
「何を?」
「君達家族は、とても不器用なんだなって」
「はあ?」
本日何度目かの声に、店主は笑った。そして袋を持ってその場を去ってしまう。
キラリ、と視界の隅で何かが光る。それに気付いた少女は視線を向ければまだ拾い切っていなかった破片がいくつか落ちていた。小さく溜息を吐いてそれを拾い上げる。瞬間、チクリとした痛みが指先に走った。
「あー……」
ぷっくり浮き出た赤い雫がたらりと流れる。幸い、左手の指だったが、店主が注意していたのにやってしまった、と少しの罪悪感を抱いた。
「切ったのか」
「あ、ペタ……」
店主と入れ替わるようにやってきたのは副店長として厨房に立つ男だった。男は掃除機を持っているから、まだ残る小さな破片を吸い取りにきたのだろう。恐らく、先程去っていった店主が頼んだと思われる。
「全く。お前はどうしてそう、自ら傷付きに行くんだ」
「別にそう言うわけじゃ……」
「とりあえず洗い流せ」
「……はい」
近場の水道の蛇口を捻り、水を出す。指先だけを突っ込み赤い血液を洗い流せば、どこから出したのか男がガーゼを手渡してきた。それに驚きつつ、少女は受け取って指に当てる。
「暫く止血しておけ」
そう言った男は掃除機をかけていく。グラスの破片が吸い込まれる音が少女の耳に響くように入ってきた。少女の内心は申し訳なさと、男へ抱く感情が半分ずつ。この状況下で考えることではないと分かっていながらも、止める術を少女は知らなかった。
吸い取り終わったのか掃除機のスイッチをオフにすると、棚の引き出しから絆創膏の箱を取り出した男は少女に指を出せと言う。それに従うと、男はガーゼに丁度傷口が当たるように絆創膏を巻き付けた。
「ペタは、どうして私に優しいの」
思わず問う。それは、少女が以前から疑問に思っていたことだった。少女にとってそれは嬉しいことであったが、秘めた恋心を抱く身としては辛い時もある。いっそ冷たく突き放してほしいと思ってしまうことも少なくない。
「さあ、どうしてだろうな」
「何で、ペタ自身にも分からないなんてこと、ないでしょう?」
「それをお前に言う必要はない」
そう言われてしまうと、少女は黙る他ない。常にこうして冷たくしてくれるなら、幼い頃抱いた感情を膨れ上がらせることもなかったのに、と。ただ、心の中で呟いた。
「あ、結局傷を作ったね!? ちょっとー、アザミに僕のせいだって言わないでよねー!」
「私の不注意だから、安心して」
「いや、そう言われると可哀想だし、少しくらいは僕のせいにしてくれてもいいけど」
「頭おかしいんじゃないの」
「いつになく冷たいね」
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