10周年記念 | ナノ
08

彼のどこが好きかと聞かれたら、答えられない。けれど、傍にいたいと思う。幼い頃、家で彼を見つける度に胸が高鳴ったのを覚えている。一言二言だけ言葉を交わせば心が満たされていた。

でも、今の私はそれ以上を求めてしまう。淡い希望が叶うことはないと知りながら、それでも希望を抱いてしまうこの感情が恋ではないと言うのなら、それ以外の言葉を私は知らない。



「おい、連絡したか?」

「いや、まだ原稿の準備がだな……」

「そんなモン作んなよ!! こちとら拉致ってきてんだぞ!?」

「だ、だってよお……」

まさかこの歳で誘拐されるとは思わなかった。世間では確かに未成年者が行方不明だとか、誰かに連れ去られただとか、そう言ったニュースが流れているけれど。自分がそうなるだなんて思いもしないだろう。ああ、だからこの国の人は危機感が無いだなんて思われるのかもしれない。

「あのグループの頭の孫だぞ? もう既に感付かれて通報されてるかもしれねえじゃねえか!」

「じゃあ兄貴が電話すればいいじゃねえか! 俺は電話なんてしたくねえよ! こちとらコミュ障だぞ!?」

「逆切れしてんじゃねえよ! 自慢することじゃねえぞ!」

まさか、誘拐犯がこんなグダグダだとも思わないだろう。

腕を縛る縄は頑張れば縄抜けできそうだけど、足は少し厳しいか。厳重過ぎる程に固く結ばれていて私の手では解けそうもない。生憎刃物の類は持ち合わせていないし、こういう時魔法か何かで武器でも出せたらいいのだけど。まあ、そんなファンタジーなこと、あるわけないか。

「じゃあ、電話するからな!? いいか、その女の声を聴かせるから、準備しとけよ?」

「おう、兄貴頑張れよ」

震える指で電話の数字を押す。まあ、馬鹿だよね。普通のスマートフォンを使って電話かけてる時点で、捕まる気しかないのかと。

「お宅の孫は預かった! 返してほしくば一千万用意しろ!! 警察には通報するなよ? したら孫の命は無いと思え!」

私の命が一千万。随分貧相な額だ。せめて一億にしておけばいいのに。まあ、多分家は一銭も払う気はないけれど。

「今孫の声を聞かせてやる」

そう言ってスピーカーホンに切り替えた。んん? 馬鹿かな?

「アオイ!! アオイいるの!?」

電話越しに聞こえる声はノイズ交じりだ。けれど、その声は確かに姉の声である。ああ、こういう時に限って、一番危ない奴に電話が通じてしまったのか。どうして部下の人とか、使用人とかが出なかったのか。姉は今どこにいるんだっけ。会社か?

「いえーい、アオイ聞いてるー?」

「ファントム、ふざけないように」

「最近の若者はこういう風にするって見たからさ」

「ネットで変な知識を入れないでください」

面倒なことになった。何でこんな時に限って家に二人がいるのだろうか。ああ、そう言えば定休日だっけ。そうだった。ああ、迂闊だった。何もこんな日に誘拐しなくたっていいじゃない。何で誘拐したの。誘拐しなければ今頃家で彼と共にいられたかもしれないと言うのに。ああ、腹が立ってきた。

「おい、何か話せよ」

「薔薇R鈴蘭L椿L」

「は?」

誘拐犯は間抜けな声を上げる。何を言ったか理解していないらしい。

「薔薇R鈴蘭L椿L」

「アオイ!? 大丈夫!? 無事!?」

電話の向こうの姉にしっかり伝わっているかは分からないが、伝わっていればこれもすぐ終わるのだろう。

「とにかく!! 身代金を持って指定した場所まで来いよ!!」

そう言って場所を指定してから通話を切った。そして私の方を向く。

「おい、お前さっき何を言った?」

「花の名前を言っただけ」

「何でこういう場面で咄嗟に花の名前が出るんだよ! おかしいだろうが!」

「だって、何を言ったらいいか分からなかったし」

誘拐犯の一人は腕を振り上げる。咄嗟に奥歯を噛み締めれば、パシンッと音が響いて、すぐに頬に痛みを感じた。何で私、すぐ叩かれるかな。

「あ、兄貴っ!」

「生意気言える程度には余裕ってこった。箱入り娘は格が違うぜ」

「兄貴、まずいよ! これで金額が下がったら……」

「うるせえ! 少しは痛い目見ねえとこういうのは黙らねえんだよ!」

彼らが口論している間に、この隠れ家と言うべきか寂びれたアパートの扉がノックされた。連れられた時にアパートの取り壊しが決定されている張り紙を見たから、恐らくここには私と彼ら以外に人はいない。すなわち、ノックした人物は姉が手配したうちの人間だろう。

誘拐犯は鍵をかけなかったのか、扉は容易に開かれた。つくづく彼らはお馬鹿さんのようだ。入ってきた人物を見れば……。

「先程何やら音がしたが……そうか、殴ったか」

冷たくて低い声。見下ろすような目。風に靡く髪。ああ、何でここにいるの。

「アザミ、どうやら罪状が増えたらしい」

「有罪判決。死刑」

誘拐犯は震えあがり、引っ付くように互いを抱きしめ合っていた。彼らがぶるぶる震える最中も彼は遠慮なく土足で部屋に上がってくると、私を起こす。

どうしてここにいるのかだとか、真っ先に入ってきたのはなぜなのかとか、殴られた頬が痛いだとか、色々思うところはあったけれど。でも、殴られた頬を撫でる手が優しくて、気付けば私は泣いていた。

「……そんなに怖かったのか」

「ちが……でも……」

優しすぎて涙が出ただなんて、言えない。いつもはこんなに優しくないのに、こんな時だけこうも優しいだなんて、狡い。不慣れな手つきで頭を撫でる手が心地良くて、このままでいたいと思うのは私の我儘なのだろう。

「アオイを泣かせた罪は重いわよ」

「アザミ、おこなの?」

「ファントムはネットに影響され過ぎだわ」


冷たい水で流したハンカチを頬に充てる。ひんやりするが、氷程長くは保てないだろう。しかし殴られた頬には心地良い。

姉はグループで誘拐犯の社会的抹殺を試みると言っていたが、その後しっかり警察に届けてくれただろうか。そもそも、誘拐を行った時点で社会的抹殺は出来るのだし、それならもっと別のことをした方がいいだろうと思うのだけど。まあ、姉にも姉の考えがあるのだろう。

「またわざと殴られただろう」

また、と言うのは以前殴られたことも知っていると言うことか。一応鏡で確認してから店に行ったんだけどな。いや、ファントムが話していると言う可能性も考えなかったわけじゃないけれど、あの時店で会った彼はいつも通りだったから。

「お前はなぜわざと殴られるんだ。そう言うのが好きなのか?」

「どうしてそうなるの……違うよ。ただ、先に一発殴られておけばその後何があっても防衛本能として片付けられると思って」

そう言うと少し呆れたような表情をした。私としてはきちんとした理由を述べたつもりだったのだが。

「少しは自分を大事にしろ」

そうとだけ言うと、彼はファントムの元へ行ってしまった。ファントムは姉を何やら話をしていたようだけど、彼が近付いたことで中断したらしい。

私は、いつもファントムに嫉妬紛いな感情を抱いてしまう。狡い、羨ましいと心の中で叫んでいる。姉の夫であるファントムも、彼の友人であるファントムも。

「さあ、アオイ。帰りましょう」

私の手を引くのは姉だ。柔らかに微笑んでいる。安心感を抱くのは、やはり姉だからだろう。姉は結婚してから、随分と母に似てきたような気がする。それもあるのかもしれない。私は……やはり父に似ているのだろうか。


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