将来のことを、考えたことはあまりない。将来の夢を考える前に、生きる意味が分からなかったから。ただ、言われればグループを継ぐのだろうと思っていた。
自分が父親に似ていることは自覚している。それによって使用人達がちやほやするのも。そして、母親に似た姉が疎外感を受けていることも。姉は私に抱えきれない程の愛情を注ぐ為、あまり感じられないけれど。それでも確かに、姉はこの疎外感の中で足掻いていた。
元々、年齢の差があったせいか、私より姉の方が優秀であるのは明白だった。愛想もいいおかげで学校でも大した問題を起こすことなく日々を過ごし、祖父にお願いをしたのも二人の男を屋敷に連れてきた時くらいだ。我儘を言うことも無く、年上らしい振る舞いをすることが多い姉を、私は決して嫌いでは無かったし、尊敬すら抱かせる存在だと思っていた。使用人の一人と大喧嘩するまでは。
祖父は退院後、仕事の引退を決めたらしい。跡継ぎは、まだグループの仕事を始めてあまり長くない姉だと言う。病院での話を聞いてしまってから、そんな予感はしていた。姉はあれで、負けず嫌いなのだ。
勿論、そのことに不満を漏らす人々もいる。今回姉と喧嘩した使用人もその一人だ。親戚の中にも、グループに所属する下っ端の中にも、姉に不満を持つ者は多い。それなら自分を、それなら息子を、それなら妹の方を――……飛び交う言葉は矢のように鋭く、姉の胸に突き刺さっていたのではないだろうか。
そんな中使用人は登場した。「努力は認めるが、才能も無いのにどうすると言うんだ。それなら幼い妹の方にした方が何倍もマシだ。あの女の顔そっくりで、この場に立つんじゃない」漸くするとこんな感じだろうか。この使用人はどうにも父に入れ込んでいたようで、私たちの母を酷く恨んでいる様子だった。
姉はそんな言葉も受け流していた。いちいち聞いていたら頭がおかしくなりそうだったから、当然と言えば当然だろう。私でもそうしていたと思う。しかし決定的だったのは、使用人がこの後に口にした言葉だ。
「そもそも、私は受け入れていない。あの女の子供を引き取るなど、旦那様もどうかしている。お前の顔を見る度にこちらが何を思っているか、分かるか? 妹の方だってそうだ。何も知らない顔をして、ちやほやされることを平気で受け入れている。あの女の図々しさを遺伝したに違いない」
姉はマイクをスタンドから外すと、スタンドを蹴り倒した。イライラして物に当たりたくなる気持ちはよく分かるが、しかしスタンドは長さもあるし流石に危険だろう。
「私は確かに母に似ている。それを疎ましく思ったことはないし、むしろ誇りに思っているくらいだ。しかし、それによってあなた方使用人が好ましく思っていないことも分かっている。ええ、好きに言えばいい。罵詈雑言でも何でも。ただ、私の前で妹を悪く言うってことは、それ相応の覚悟を持ってしているのでしょうね?」
場は静まり返る。大きく啖呵を切った姉は、周りが黙ったことに満足したのかマイクのスイッチをオフにした。使用人も固まって動けないでいる。そして姉は何かを思い出したようにもう一度マイクをオンにして口を開いた。
「ああ、そういえば。私、結婚します」
それは私すら聞かされていない情報だった。
私は結婚相手を紹介されて非常に驚いた。姉の結婚相手は、私もよく知る――否、正確にはまだ知らないこともあるが、しかし存在をよく知っている男だったのだから。そんなそぶり一度も見たことがない。姉は私がカフェで働く前から、カフェに入り浸っているようではあったけれど。でも、それは姉が彼らを連れてきたから、その責任を感じてのことだと思っていた。しかしどうやら違ったらしい。
姉の披露宴のことはあまりよく覚えていない。ケーキは私が作った。ただそれだけだった。ドレスを着せられ、軽いメイクを施され、ヘアメイクもされて、座っているだけの簡単な作業。出てくるご飯はおいしかったけれど、彼の味が恋しくなった。
高校二年となった今はもう、店の調理は私も参加しているが、主な作業は勿論彼だ。しかし、元より私の方が長く料理をしてきたからか早い段階でレギュラーメニューを作らされた。うまく作ることが出来れば、彼は全部食べてくれる。今では美味しいと言ってくれる頻度も多くなった。それだけで私は満たされたような感覚になり、幸せを感じられる。
「結婚の発表をして三ヶ月後に入籍。更にその一ヶ月後にアザミは本格的にグループを継ぐ為全ての企業に介入している。僕と会う暇なんて全くもってないんだよね」
「じゃあ働けばいいんじゃない。少しは紛れるでしょ」
「一応君は僕の義妹になるんだから、もう少し僕に対して優しくなってもいいと思うんだ」
「馬鹿言わないで。いつの間にか姉に手を出しておいて、いつの間にか結婚まで持っていった輩を例え義理でも兄とは呼びたくないわ」
休日の朝、開店前。テーブルを拭いて椅子も汚れていないか確認をする。ソファーにゴミが挟まっていないかも。カウンター席は店主がやっているはずだが、その店主はだらけてカウンターに身を任せていた。
「アオイ。お前この間試作品を作っていただろう。味見はどうした」
厨房から彼が顔を出す。仕込みをしている最中だと思っていたから心臓が跳ねた。少し急いで彼の近くへ移動する。
「一応ファントムと、あとバイトの何人かにしてもらったけど」
「結果は?」
「ファントムもバイトの人達も皆おいしいしか言わないから……」
「自分で食べた感想は?」
「……何かが足りない」
私の言葉に彼は小さく息を吐いた。
「まだ時間あるけど、どうする?」
店主の男が問う。答えは決まっている。私は髪を纏め直して、ポケットに入れておいた三角巾を付けた。エプロンを厨房用に替えて、厨房に入る。真っ先に向かうのは手洗い場。きちんと洗ってアルコールを吹きかけてから作業を開始する。
オムライス、サンドイッチ、パスタ……色々とメニューはあるけれど、常に新しいものを考えていかなければならないのは大変だ。朝は比較的余裕があるけれど、何人かの常連さんにはモーニングも出してほしいと言われているし、バーの常連さんからは逆にもう少し遅くまでやってほしいと言われるし、両方に来てくれる人からは、いっそ別で経営したら? なんて提案すらされてしまう始末。私の我儘でこうなってしまった申し訳なさも有り、複雑な気持ちだ。
「正直、酒のつまみ関係はペタの方が美味いけど、賄いならアオイの方がお得感あるよね」
「つまみ食いしないでくれる? これからペタに出すのに」
手早く調理をしていく。幸い材料は揃っていた。食材を切って、炒めて、味付けをして、皿に盛る。相変わらずあまりセンスのいい盛り付けは出来ないが、少しは真面になったと信じたい。
「最近は賄いを楽しみにしているバイトもいるみたいでね。試作品の味見なんて頼んだら素早く飛んでくるだろう?」
「まあ、客観的に意見を貰えるなら積極的に味見してほしいところだけどね。ただ美味しいとだけ言われても、って感じだし」
「ファントム。また何人かアルバイト希望者が来ていましたよ」
「ああ、今は募集していないんだけどね」
アルバイトは何人か入れ替わった。案外人気があるらしい。辞めていく人は基本、就職するからと言う理由だった。何人かはここで正規に雇用してほしいと言ってきた人もいたけれど、せめて調理できる人でなければ、と言うのが店主であるファントムの希望だった。
アルバイトの募集をするとすぐに電話がかかってくる。女子高生だったり男子大学生だったり様々だが、化粧が濃いだのアクセサリーをジャラジャラ着けているだのと言う理由でなかなかお眼鏡にかなわないらしい。まあ、面接でそれなら雇っても似たようなものよね。食品を扱う店だから、化粧も程々に、アクセサリーも出来れば着けずに来てほしいのが本音だ。私も、この歳になって化粧など一度もしたことがない。随分と女として情けない状況だ。
「アオイ、今アザミ何してる?」
「さあ? と言うか、もうすぐ開店なんだからだらけてないで、シャキッとして。それでもマスターなの?」
「君の試作品の味見が先だろう?」
「もう出来たわよ」
「ペタ、出来たってさ」
自分で何かが足りないと思っているのに、彼に食べてもらって納得してもらえるはずもない。結果は知れてる。けれど、彼は案外、的確なアドバイスをくれたりするのだ。勿論、くれない時もあるけれど。こういう時は中学時代に常連客となり、その流れで友人となってしまった彼女が適役なのだけど、休日に朝に呼ぶわけにもいくまい。
「ソースの味があっさりしてるな……これならライスをどうにかした方がいいんじゃないか?」
「そうね……薄味だとやっぱり物足りないだろうし。もう少し考えてみる」
「ああ」
姉の結婚を機に、考えたことがある。私が彼に想いを告げてもいいのだろうか、と。姉が連れてこなければ出会うはずのなかった人だ。こうして今もまだ関わりがあるのも、幸運だろう。けれど、欲張りな私はもっと欲しくなる。決して手の届かない人だけど、きっと受け入れてはくれないだろうけれど。でも、一瞬でもいいから、届かせてみたいと思ってしまうのだ。
2016.09.25
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