10周年記念 | ナノ
07

『もし、あの子が君のことを気に入って、結婚を前提に付き合いたいと言い出したらどうする?』

『戯言を……』

『まあ、もしもの話だよ』

男はにこりと笑う。友人はそれに暫しの間を空けてから、考えるそぶりを見せた。

『正直に言いますが、私はこの家も、アザミも、あの妹も、然程大事には思っていません』

そして友人の口から放たれた言葉は、男にとって予想通りのもので。しかし偶然立ち聞きしてしまった少女にとっては衝撃的なものだった。

男が少女の存在に気付いたのは友人の言葉が始まってすぐの時だ。しかし男は止めるそぶりを見せることは無く、友人の言葉を最後まで続けさせた。何せ、男にとっても一つを除いて大事には思えなかったから。おかしすぎる家の様子も、どこか感情を押し殺している妹も。彼が唯一興味を抱いたのは、妹を異常なまでに愛する姉だけだった。

『ここはあくまで、繋ぎでしょう』

『まあ、そうだよね』

『それに、あの小娘が私を気に入るなど、あり得ない』



最悪の夢見だ。そう思いながら少女は目を開く。ぼんやりとしたまま、ふかふかの枕に視界を埋められ、手探りで携帯電話を探す。開いてみれば時間はまだ早い。再び眠りにつこうとした時、ドタバタとした足音が耳に入り、少女は完全に目を覚ました。

「旦那様が倒れた!!」

思わず何度も瞬きをしてしまう。部屋の外に出れば視界に飛び込む異様な景色に驚いたからだ。

ばたばたと廊下を行き来する使用人達は誰も彼もが大慌てで、状況を理解していない少女に話しかける人など一人もいなかった。

別の部屋から姉が姿を現しても同様。二人で祖父の部屋へと行けば、祖父に声をかける使用人らが数人、後は何人かが出入りを繰り返している。お湯を持ってきたり、タオルを持ってきたりと本当に忙しない。暫くすると医者がやってきて、祖父を病院に運んでいった。

途端に屋敷の中は静まり返る。普段も静かではあったが、人の気配がしていた。しかし、今は人の気配があまり感じられない。数人は共に病院へ、残りは一度各々の部屋に戻っていった。

そこはあまりに広すぎて、少女は思わず姉の裾を掴む。孤独を感じてしまいそうだったから。

「大丈夫よ。あの御祖父様がそう簡単にどうにかなるはずないもの」

「ちがう……」

祖父の心配をしているわけではなかった。祖父は祖父でありながら、しかし他人のような感覚さえ抱かせるから。少女はあまり好きでは無かった。

「……静かすぎる」

しかし、身内が亡くなることの恐怖や喪失感は、もう二度と味わいたくはない。祖父らしからぬ人間でも、ここにいたのは確かに祖父であった。少女は好ましく思っていなくても、それでも少女にとっての保護者は祖父で、時々見せる表情が父に似ていると思っていたから。



祖父は三週間の入院となった。倒れた原因は過労と疲労。跡継ぎのいない仕事を今も尚熟していた為に、今回の倒れる要因となったのだ。体調はすぐに良くなるが、念の為と言うことで長めに入院すると連絡を受けた。

少女はあまり気乗りしなかったが、一度は顔を出すべきだと言われ、姉と共に見舞いにやってきていた。祖父は個室のベッドで新聞を読んでいる。入院しながらも仕事をしているようで、思わず少女も呆れた。姉は新聞を取り上げ、横になるよう言うが、祖父は不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。

「順調みたいですね」

「ああ」

「もう無理はなさらないように。私もアオイも、心配しましたよ」

「そうか」

ふい、と顔を窓に逸らす。外は青空が広がっていて、疎らに雲が浮いていた。

「アオイ、悪いんだけど花瓶の水を取り替えてきてくれない?」

「ん」

花瓶を受け取り、水道のある場所へ向かう為、病室から出る。戸を閉めたところで白衣を着た男性がやってきた。

「おや、お孫さんかな?」

男は祖父の主治医だった。あの日祖父の元へやってきた医者だ。少女は軽く会釈するが、主治医は少し話をする様子で立ち止まった。

「あの人ももう若くないからね。そろそろ仕事は引退してほしいところだよ」

「はあ……」

「息子さんはいないし、孫も女の子二人で跡継ぎ問題は大変らしいじゃないか。せめてもう少し休んでくれたらいいんだけどね。君からも言っておいてほしい。可愛い孫からの言葉なら少しは聞く耳も持つだろうし」

「そうですか」

そう言うと主治医は戸をノックしてから開けた。それを横目で見ると、少女は花瓶の水を取り替えに行く。

祖父の容態は決して悪くない。まだ生きていける状態だ。しかし、仕事が忙しいことも事実だった。孫の自分達に構う暇も無く、子供の命日にすら仕事を休まない人間だ。冷たい印象を抱かせ、どこか人間らしくない祖父を少女は好ましく思っていないが。それでも憎めないのはきっと血の繋がりがあるからだろう。

花瓶の水を新しくして病室に戻る。中からは三人の声が聞こえる為、まだ主治医がいることが分かった。戸を開ければ、祖父の少し焦ったような、怒りを孕んだような声が聞こえる。

「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか!!」

思わずビクッと肩が震えた少女は動きを止めた。

「でも、これが一番手っ取り早いし、私ももうだいぶ仕事にも慣れてきました」

「しかし……!」

「それとも御祖父様は、アオイの方が相応しいと?」

「それは……」

祖父の言葉に勢いが消え、窓側に立っていた主治医が少女に気付く。それに姉も、祖父も少女をその目で捉えた。少女はハッとして病室に入る。

「水の取り換え、ありがとね」

「ううん」

少女は理解していた。三人がどんな話をしていたか。姉が今まで、何をしていたか。どれ程努力していたか。わざわざ問い質すまでもなく、理解していた。


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