01
『しゆみんたかちきおほうす』
これが僕のスマホに送られてきた彼女からのメール文だ。彼女は未だにガラケーだから、僕や幼馴染みのルーシィとのやり取りはメールか電話である。一応、彼女のパソコンにはスカイプも入っているけれど、わざわざスカイプを立ち上げるくらいならメールを打った方が早い。恐らく布団の中……眠気眼で画面をよく見もせず変換すらしないでそのまま送ったと見た。春、特に休日になると彼女はなかなか目を覚まさない。
時計を見れば時刻は7時から少し過ぎたところを示している。今は春休み真っ只中で、早起きする必要がないからまだ寝ていてもいいだろう。しかし今日は約束がある。僕は場所取りの為そろそろ家を出ようかとしているところで、お弁当係の彼女は昨夜のうちに仕込みを済ませ今朝完成させる予定だと言っていた。
メールの本文の意味はまだよく分からないけど、この様子なら彼女はまだ布団の中だろう。もしこのまま彼女が眠り続ければ、僕らのお昼ご飯が無くなってしまう。それはまずい。ルーシィ達が買ってくる予定のお菓子だけでは満足できない。お酒の飲めない子供がジュースやお茶、お菓子を桜の下で飲み食いするのは勿論、美味しいご飯を食べると言う名目があるんだ。
「ルーシィ、僕ちょっと隣に行ってくるよ」
「え? リディア起きてないの?」
「多分。変なメールきた」
「じゃあ任せるわ。変なことしないでよね」
「しないよー」
出来るわけがない。僕と彼女はそんな仲ではないのだから。
彼女の家――正確に言えば彼女の叔父の家はすぐ隣だ。ルーシィの家が大きいから、すぐ隣と言っても少し歩くのだが。ほんの少し真っ直ぐ歩くだけで、彼女が住む家に辿り着く。
一般家庭によくある門扉まで来るとインターホンを鳴らした。反応はない。気付いていても眠いと無視することがあるから、きっと今回もそうなんだろう。反応がないことから普段はいるはずの彼女の叔父さんは、今日は留守のようだ。
こんな時の為に合鍵を預かっている。否、こんな時の為ではないのだけど。鍵を開けて戸を開き、中に入ると見慣れた玄関だ。靴を脱いで真っ先に向かうは階段。家の中の間取りは大体頭に入っている。階段を上り、数歩歩くと彼女の部屋の扉が見えるんだ。
深く息を吸っては吐いてをいくらか繰り返し、いざノックをする。返事はない。気付いていない可能性もあるし、無視をしている可能性もある。だから僕は声をかけた。
「リディア、起きてる?」
中でもぞもぞしているような音が聞こえる。もう一声かな。
「そろそろ起きないと、お弁当完成しないよ」
部屋の中から「んんー……」と小さな唸り声が聞こえた。ここでダメ押しだ。
「ルーシィやエルザ達ががっかりするだろうなあ」
「……おきるぅ」
彼女はルーシィに弱い。最近ではエルザも含まれているかもしれない。けれど、幼少期――ルーシィが生まれた時から一緒にいるからか、彼女はルーシィにとても甘かった。
ルーシィは僕らと3歳差で、彼女にとっては妹のような存在でもあるのだと思う。ルーシィもルーシィで彼女を姉のように慕っているし、小学生の頃から一緒にいる僕でさえ、彼女達の間に入り込めない時もあるくらいだ。
「おはよ……ロキ」
漸く目が覚めてきたらしい彼女が扉を開けた。着崩れた寝間着はギリギリ原型が分かる程度なのに、彼女は鏡を一切見なかったのか気にした様子もなく僕の前を通り階段を目指す。僕はと言えば一瞬で彼女の姿を理解して顔ごと目を逸らした。
「お、おはよう」
彼女の朝の支度は随分と遅い。洗面所に行って顔を洗うまで、動きが不安定だ。のそのそ歩いていたかと思えばフラフラしたり、止まって立ったまま寝たり。酷い時は壁に頭をぶつけると言う。自分の部屋でしっかり目を覚ますことが殆どなのに、月に二回、多い時は三回から四回はこうなる。今月は今日だったらしい。
彼女は何とか洗面所に辿り着いたようで、僕が階段を下りると水の音が聞こえた。僕は洗面所には行かずリビングに入る。シンクに皿とコーヒーカップがあることから、彼女の叔父は朝早く家を出たようだ。
ケトルに水を入れて火にかける。彼女の好きな紅茶の茶葉を用意して、ティーポットとティーカップも近くに用意。お湯が沸いたらポットとカップにそれぞれお湯を注いで暫く温める。それが終わったらポットのお湯は捨てて茶葉をセットし、更にお湯を注いでタイマーをスタートさせた。
少ししてリビングの戸が開かれる。完全に目が覚めて、部屋着に着替えた彼女が入ってきた。
「あ、おはよう。ロキ」
「おはよう」
本日二回目の朝の挨拶を交わす。髪は簡単に一つに纏めている彼女の姿は、大学生になった今珍しくはない。今日も後でいつもの三つ編みにするのだろう。
「今お茶淹れたところなんだ」
丁度タイマーが鳴り、お湯を捨てたカップに紅茶を注いだ。ふわりと良い匂いが漂い、僕の手元を覗き込んだ彼女が少し微笑んだ気がした。
「ありがとう」
「リディアが自分で淹れた時程おいしくないかもしれないけどね」
「ううん。ロキが淹れてくれる紅茶も、私は好きだよ」
彼女は狡い……簡単に好きだとか言うから、僕は長く彼女と一緒にいても心臓が強くなった気がしないんだ。紅茶に対してだと分かってはいても、心臓がドクンと跳ねる。
「……僕、そろそろ場所取りに行かなきゃ」
「ん。私もこれ飲んだらお弁当作る。作り終わったらそっち行くね」
「ゆっくりでいいよ。ルーシィ達はもうちょっと遅く来るしね」
そう言えば、と僕は続ける。気になっていることがあるから。
「『しゆみんたかちきおほうす』って何?」
「なにそれ?」
「多分、リディアが眠気眼で打った文だと思うんだけど、これがメールで届いたんだよね」
彼女は自分の携帯電話を開いてメールの確認をする。
「確かに送ってる……何だろう……」
「まあ、思い出したら教えてよ」
「うん」
そうして僕は彼女の家を出て、一度自分の家に戻ってから準備しておいた荷物を持ってお花見の場所取りへと向かった。
ふあ、と小さく欠伸をする彼女は瞬きをする。瞼はいつも以上に下がっていて、手に持っている本を落としてしまいそうだった。
「眠いなら寝たら?」
「んー……」
昨日の就寝時間が遅かったわけでも、今日の起床時間が早かったわけでもない。今日の起床には一つ問題があったが、それも大して重大なことでもなかった。最近は遅くまで起きていることもあるようだが、基本的に日付が変わる前には布団の中に入る彼女のことだ。睡眠時間が足りないことはまず無いはずで、ではなぜそんなに眠いのかと問えば春だから、と彼女は言うのだろう。
「僕に付き合わなくてもいいんだよ?」
小さな花弁がひらりと舞いながら落ちる。風に乗って揺らめくそれは嫌でも視界に入ってくる。嫌だと感じたことはないけれど。
大きな桜の木の下、名目上のお花見を僕らはしようとしていた。参加者は大学生の僕と彼女、僕らの共通の幼馴染みである高校生の女の子。そしてその友人達だ。全員未成年だからお酒なんて飲まないけれど、ジュースとお菓子、彼女が作った料理を食べながらお喋りするだけの行事である。
それぞれ役割があり、高校生組は飲み物やお菓子の買い出し。彼女はお弁当作り、僕は場所取りだった。彼女は作り終えたお弁当を持ってここに現れた。弁当箱に入りきらなかった分を朝ご飯として分けに来てくれたと言う。とても美味しかった。
高校生組が来るまでまだ時間があるから、のんびり待っていたんだけど、思わずのんびりしてしまう気候に彼女は今にも眠ってしまいそうになっていた。程よい風が尚更心地良いのか、うつらうつらと船を漕ぐ。
「ほら、僕のコートかけて、横になっていいから」
ごろん、とシートの上に寝ころんだ彼女に春用コートをかけてやる。日焼けしないように影になっている場所に頭を向けさせて、下にタオルを敷くともう眠りについてしまったようだ。おやすみも言っていないと言うのに。
一人で待機していた時と同じになってしまった。一人の時はスマホを見ながら時間を潰していたけれど、寝ているとは言え横に彼女がいるとそんな気分にもなれない。少し上を見上げれば、満開の桜と青々とした空が視界に入った。
こんな日は、僕と彼女達が出会った時を思い出す。あの時もこんな暖かい日だった。まだ桜は満開とは言えなかったけど。当時の幼い僕らはまともな自己紹介なんて出来なくて、そもそも自己紹介出来る程僕のプロフィールは少なかった。ただ、女の子は可愛かったし、彼女を地味だと思ったのは今でも覚えている。
彼女の第一印象は笑わない地味な子と言う印象だった。今でも時々思うことがあるが、当時はそれ以外に思い浮かばず僕は彼女を苦手としていた。こちらが話しかけなければ声すら聞けない、そんな子だった。彼女と共にいたもう一人の女の子――ルーシィは明るくて可愛い女の子で、随分と対照的だと思ったし、何で仲がいいのか疑問に思うことも多くて、つい口に出してしまったこともある。
ただ、彼女達はお互いを無条件に信頼できる相手だと思っているらしいことは、彼女達と接していくうちに分かったことだ。僕はそれが羨ましくて、自分が心を開いていたかと言えばそうでもないくせに、相手が心を開いてくれないことにモヤモヤした。実に自分勝手だけどね。
今となっては僕らも打ち解けてすっかり仲が良い友人のつもりだ。僕としては、友人と言う立場が恨めしくて仕方ないのだけれど。僕は彼女と友人でありたいと思ったことなんて一度もないから。
ああ、そうだ。彼女に信頼を寄せるようになったのも丁度こんな満開の桜の日だった。出会って一週間、毎日のように遊んでお互いのことを理解しようとしていた。心を開いてもいないのに、それが必要だと言われずとも分かっていたから。
上級生だろう男の子相手を口で負かした彼女が、ヒーローのような存在にさえ見えたあの日、帰りに駄菓子屋で確かに感じた胸の高鳴りに出会うことはもうないのだろうけれど。今だって似た感情を抱いているんだから、きっと僕は彼女以上に好きになる人なんて出来ないんだろう。
懐かしい記憶が頭を巡って、ふとスマホの画面を見れば時刻は待ち合わせ時間間近となっていた。そろそろ高校生組が到着する頃だろう。自分の心の中が暖かい気持ちと、複雑な気持ちが混ざり合ったところで、そろそろ彼女を起こそうか。
「リディア、起きて?」
肩を揺さぶり、優しく声をかける。まだ起きる気配はない。彼女は一度深い眠りにつくとちょっとの揺さぶりと声では起きないんだ。騒々しい宴の中でも熟睡できるだろう。
「リディア、」
耳元に口を寄せる。近くで呼ばないと気付かないから仕方ない。
「そろそろルーシィ達が着く頃だよ」
「んん……」
少し眉間に皺が寄って、ゆっくりと瞼が上げられる。何度か瞬きを繰り返して、その度に震える睫毛が可愛い――……僕はどれだけ彼女に近寄っていたんだっ……!!
「ルーシィは……?」
「ま、まだだけど、そろそろ待ち合わせ時間だからね」
「……そう」
彼女は気付いていないのか、気にしていないのか、どちらか分からないけれど特に何も無かったかのように起き上がった。軽く伸びをしてから、僕の春用コートに身を縮こまらせるように包まれる。ちょっと待って? それ僕のコートだよ? お花見終わったら僕が着るんだよ? 待って?
「懐かしい夢を見たの」
「夢……?」
「うん。私達がまだ小さい頃の夢。こんなこともあったなって思って」
「どんな時の夢だったの?」
僕の問いに、彼女はこちらを見てふふ、と笑う。こんな風に笑うのを見るのは僕でも数えられる程しかない。彼女の性格を考えれば珍しいことだ。きっと寝起きだからだろう。そうだと思わないと僕の心臓がもたない。
「ほら、小さい時に三人でお花見をしようって言って公園に行ったでしょう? 結局駄菓子屋に行ってお喋りしながら少ないお小遣いで駄菓子を買って食べただけだったけれど」
まるでリンクしているかのように、彼女はあの頃のことを口にする。僕が思い出していたそれと同じ記憶だ。体育座りをして膝に頭を乗せるようにした彼女はこちらを見上げるように見て、「ね?」と言うものだから、僕は彼女を好きで無くなる自信がない。むしろどんどん好きになっていくようだ。
出会って一週間の女の子に心を開くと同時に生まれたのが友情ではなく恋愛感情だなんて誰が予想できただろうか。きっと誰にも予想できない。ましてや、当時10歳になろうとしている幼い僕に予想できるはずもない。
「ん……ルーシィ達きた」
「うん。そうみたいだね」
遠くから手を振る姿が見える。飲み物が入った重そうな荷物を抱える男子達と、お菓子が入った袋を持つ女子達が嬉しそうに楽しそうに駆け寄ってくる。ああ、転んだらどうするんだか。ルーシィももう高校生でそんなことはないと思うけれど。
「はい、ロキ」
「え?」
「コート。このままだと用意できないでしょう? 貸してくれてありがとう」
「ああ……そうだね。うん」
コートを受け取ってそれを端に置く。風で飛ばされなければいいけれど。
こちらにやってきた高校生組が荷物を置いて靴を脱ぐ。各々好きなところに座るためシートの上が忙しない。ルーシィは勿論彼女の隣だ。更にルーシィの隣には友人のナツがいるから、あの時と違って今度は僕とルーシィが彼女を挟む形となった。
「じゃあ始めますか」
「乾杯は誰が言うの?」
「ロキでいいじゃん?」
「えっ」
僕と彼女が出会った季節は愛おしく、恨めしい。僕が彼女に愛情を抱いた季節が尊くて、憎らしい。気付かなければよかったと後悔したのは何年も後で、その後も僕はずっと、彼女を見ているしか出来なかった。だって僕らはずっと、この先も、幼馴染みの友人だから。
いつも思うんだ。君のことが好きだと言えたら、どんなに良かったか。例え今の心地良い関係が崩れたとしても、伝えられたらきっとこんなに辛くなかった。
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