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「知らないフリをしてどうなるのか」

そう言っては含みのある笑みを浮かべる目の前の男を一瞥して、視線はすぐに自分が持っているティーカップに移した。程よい温かさを持ち、薄い湯気がゆらりと揺れる。ふわりと香る紅茶のにおいに甘いものを欲してしまいそうになりながら、カップの中の波紋を眺めた。

「ファントム。私はね、理解できない奴は一生理解しなくていいと思うの」

「ほう?」

「アオイの可愛さも、素晴らしさも、尊さも、愛おしさも、理解できないのならしなくていい。理解したフリもしてほしくない。でも、だからと言って傷付けるのは人として間違っているでしょう? 何もしないならこちらだって何もしない。何かするからこちらも何かするのよ」

「何か、の度合いがだいぶ違うように見えるけどね」

私の大事な妹は中学時代――否、そのもっと前から虐めに遭っていた。本人は何も言わないし、担任からも何か言われることはなく。だから私は気付きながらも、気付かないフリをした。その方が妹もやりやすいだろうと思ったし、何より家は本来表に立つようなグループでも無いのだ。事実、祖父は表に立つことはあまりしない。愛想も悪く、社交辞令の一つも言えない人間だ。その不器用さはやはり、妹に似ている。いや、この場合は妹が祖父に似たと言うべきだろうか。

小学校時代に妹を虐めた子達は今頃何をしているだろう。まだ子供だったし、幼い彼らに妹の才は化け物じみていたのかもしれない。その頃はまだこちらも加減していたはずだ。

中学時代の子は、流石に物事の分別もつくようになり、人間としてのマナーも身に着くようになるだろう。なんて思っていたのが間違いだった。中学生はまだまだ子供で、正しい判断が出来るかも危うい。そんな存在だ。流石に最終学年になってまで分からないようでは困るが。まあ、困った結果、彼はどうなったのだろうね。私はただ、報告しかしていないし。

そして今、妹は高校へ通っている。腕や脚に傷をつけて帰ってきたり、頬を腫らして帰ってきたりしているそぶりは見せない。昔より格段に隠すことが上手になったあの子は、今もまだ虐めを受けているのかもしれない。

人より少し優れていたくらいで、初めはちやほやするくせに、すぐに気味悪がる。自分達と違うから、あの子は異常だと言い始める。ここへ来た時からずっと、だ。あの子を今もちやほやするのは権力に肖りたい奴らか、屋敷の使用人くらいだろう。この中に私は含まれていないが、私はそもそも妹をちやほやしていない。だって私はあの子を愛し、あの子の成長を見守り、あの子自身を守る――ただそれだけだもの。

「最近忙しいんですって?」

「ああ。アオイの作るメニューはどれも人気でね。男女問わず、と言うことに驚いたけど、本当にあの子は天賦の才を持っているよね。羨ましい限りだ」

「天賦の才なんて一体誰が言ったのかしらね……」

「違うのかい?」

「あの子は才能ある子よ。頭はいいし、運動も出来る。学校での授業に困ることはまず無いでしょうね。でも、料理も音楽も、いつだってあの子は自分の意思で触れて、始めて、出来るようになった。練習をきちんとしているのよ。これが、天賦の才だと言うの?」

「へえ……そうだったんだ」

「料理だってね、初めの内は包丁を握るのも危なくて、幼いからフライパンを振るうことも出来ない。ただ、私と母を見ていたからか失敗することは少なかっただけ。味付けだって、父の真似をしていた。初めての料理はしょっぱい野菜炒めだったわよ」

あの子が化け物なんて言われる筋合い、どこにもないのに。誰もそれを理解する子がいなかった。私はそれが悲しい。

元々負けず嫌いなのか、初めての料理を失敗してあの子は随分と練習していた。切るのも、炒めるのも、味付けも。ただ、私や母が作るものより随分とマシで食べられるものだったのだ。少しくらいしょっぱくても良かった。それ以来頑張って練習して、今に至るのだからむしろ努力の人と言われてもいいくらいだろう。

「でもさ、虐めって虐められる側にも何かしらがあるよね? 理由なんて虐める側にしか分からないし、事実を言うとは思えないけど。何となく、で頬を殴ることはないと思う」

「ああ、中学時代のあの子ね。秀才とか言われていた男子だったそうよ。それが、テスト順位でアオイに負けたから話をしようとしたら、アオイが拒否をしたらしくてね」

「まあ、アオイにとってはどうでもいいことだろうしね」

「本当にね。まあ、それで思わずカッとなって殴ってしまったらしい。アオイもアオイでわざと避けなかったからダイレクトに当たって、男子生徒も流石にまずいと思ったのかその場から逃げたらしいわ」

「で、アオイはその後学校を早退して空き地にきた、と。あれから随分と月日が流れたけど、そんな理由だったとはね」

「男子生徒は謝罪してくれたし、治療費も出すと言ってくれたから、こちらも冷たく突き放すことは出来なかった。アオイ自身はこれによって虐めの存在がバレてしまったから暫く私と顔を合わせようとしなかったもの。寂しくて死んでしまいそうだったわ」

その後、虐めに関与した全ての生徒を割り出し、“話し合い”をするのに時間がかかったから、丁度良かったと言えばそうなのだけど。

「アザミはそれでいいのかい?」

「何度も言わせないで、ファントム」

空になったティーカップをソーサーの上に置く。食器同士がぶつかる小さな音が耳に入る。紅茶の雫がカップの底に流れる様を見つめながら、私は至極当然のことを彼に言う。

「これでアオイが幸せになるなら、これが一番正しいのよ」

「君もぶれないよね。あの子の幸せは、あの子自身が決めることなのにさ」

「だからこそ、よ」

彼だって気付いている。私も気付いているのだから。あの子は、隠そうとしても、隠しきれていない。歪むほどに純粋なその感情は、途切れることなく、止まることなく、溢れ出てしまっているのだから。

あの子が嫌う人間も、あの子が苦手な自宅も、全てを覆い尽くせる程に好きな何かがあるのなら、それでいいの。そして、それがあの子の幸せなら、私は嫌いな自宅も受け入れましょう。だって私はあの子の――アオイのお姉ちゃんなんですもの。


2016.09.02

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