03
――この家はおかしい
そう思ったのは、ここで暮らすようになって半年も経たない頃だった。彼と友人の男は、とある少女に連れられこの家――基、屋敷にやってきた。真面な職も無く、家までも無くなることになった時、助けてくれたのが少女だ。少女は少し大人びた中学生の女の子だった。一年程前から交流があり、随分と打ち解けた少女は彼らに「家で働けばいい」と言ってのけたのである。当然、彼は驚いたし、初めは断った。アパートが取り壊される話をしたのは、単に顔を合わせる機会が無くなるといった意味で、職を催促したわけではないのだ。そもそも、いいところのお嬢さんだろうと思ってはいたが、だからと言って金をたかるようなことは考えたことなど一度も無い。しかし少女は自信満々に「大丈夫」と言った。
彼と同居をしていた友人の男も初めは断ったが、職が無いのも事実。家が無くなるのも事実。背に腹は代えられないと言った様子で渋々お願いすることにした。友人にとって年下の少女に頭を下げることになるのは余程屈辱的だったのだろう。打ち解けたとは言え、そもそも友人はあまり少女を好ましく思っていなかった。
やがて、二人は少女に連れられ大きな屋敷にやってくる。住み込みでのお手伝いが仕事だ。使用人等がやっている仕事の手伝いを主に行う。初めは慣れないことだらけで失敗していたが、半年も経てば少しは慣れてくるもので。元より手先の器用だった友人は着実に仕事をこなしていった。それに対し彼はあまり手先が器用でなく、流石に自分でも問題だと思ったのだろう。とにかく何か一つでも出来るようになろうと、コーヒーを淹れ始めた。
しかし、どれ程経っても屋敷の人々は彼らを訝しんで近付こうとしない。屋敷の主である壮年の男には孫が二人おり、一人は彼らと出会った少女。もう一人は少女の妹。この妹はとにかく使用人等に好かれ、大事にされていた。だからか、時折冷たい態度すら見せる少女には、彼らと話をしていても何も言われなかったが、妹が話をしようとすれば即座に飛んできては引き剥がしていた。
その辺りから、彼はこの家がおかしいと考えるようになる。両親がいないことは少女から聞いていたし、それによって祖父の家に引き取られたことも聞いていた。しかし、祖父であるはずの家主の男は孫に対し笑みを向けることもなく、まるで興味が無いように振る舞っていた。姉妹であるはずの二人への態度があからさまに違う使用人達についても疑問が浮かぶ。妹への過保護具合と、姉への放任具合はどう考えても異常だった。
しかし、それ以上に異常な存在もいた。彼らと出会い、打ち解けた少女である。過保護にされる妹の姉――放任され、冷たく突き放される姉だ。少女は十代半ばのわりにどこか達観していて、それでいて異常な程に妹を愛していた。好きすぎて頭がおかしい人を初めて見た、と彼は友人に言う。そのくらい、少女の愛情は異常だった。
言うなれば、少女は妹以外の何かに興味を示すような子では無かった。段ボールに捨てられた子猫は本当にたまたまだったのだろう。単なる気紛れだ。そこから、彼らが仲良くなると言うことが異常だった。彼らと打ち解けた少女は、彼らに笑みを向ける少女は、いつだって妹のことを考えていて、妹の前では彼らに見せることのない程慈愛に満ちた笑みを向けるのだ。
妹が傷を作って帰ってくれば救急箱と携帯電話を持って「手当するから救急車!」と言うような人間である。使用人の中には医学の心得がある者がおり、大事な怪我では無かったのだが。それを聞いた時の少女は、妹の命が助かったとでも言いたげに安堵の表情を見せて、目を潤ませていた。泣かなかっただけマシだろうか。そう思ってしまう。
――ああ、彼女は異常だ
確信するのに時間はかからなかった。そして、どこかそんな彼女に惹かれていることも、彼は気付いていた。
自然な程異常なこの屋敷で、自然な程正常であるかのように見せる人間が、不自然な程揃っている。あまりにも出来過ぎていて、それこそ異常だった。
彼は自身に宛がわれた部屋で思わず笑う。丁度仕事を終えた友人がやってきて、今日作ったと言うつまみと共に酒を飲む。何を笑っていたのか、と友人に問われ、彼はやはり口角を上げながら口を開いた。
「ここは随分と面白いな、と思ってね」
「そうですか」
「僕は、僕も君も結構普通じゃないと思ってたんだよ」
「私は今でもそう思っていますが」
それは彼も同じである。この状況で楽しんでいる自分がいるのだから、それが普通であるはずがない。
「でもさ、ここにいると自分が普通なんじゃないかって思えてくる。誰も彼も自分が異常だと気付いていないし、気付いていても隠しているから、不自然な程自然で、自然な程不自然だ」
「貴方はそうやっていつも遠回しに物事を言う」
「ねえ、ペタ」
「何でしょう?」
「ここで一番異常なのって、誰だと思う?」
彼の質問に友人は考えるそぶりを見せる。形だけなのかもしれないが、きちんと考えてくれようと見せてくれるのは嬉しいものだった。
「――まあ、使用人でしょうね」
「あはは。僕と同じだ」
「同じか或いはその下あたりにあの女、でしょうか」
「そうだね」
「しかし貴方は、その女を気に入っている」
それは、彼もまた異常であると言外に言っていた。それに彼は一層笑みを深くする。彼はそれでよかった。生まれながらにして持った白髪のような銀色の髪も、赤紫の目も、そのおかげで陰惨な幼少期を過ごしたことも。他人にとっての異常であっても、現在の彼には必要なことだった。
「ところで、あの子とは何か話でもしたのかい?」
「あの小娘は何も話しませんよ。最近は、チラチラとこちらを見ては何かを言いかけていますが……どうせ友人の一人もいないのでしょうね」
「君がなってあげればいいじゃないか。最初の友人に」
「御冗談を……あんな小娘と友人なんて、真っ平御免ですよ」
「随分酷いことを言うね。可愛らしいじゃないか。僕は気に入ってるよ? あの子のこと。特にあの目がいい。僕と少し似てると思わないかい?」
「それこそ冗談でしょう。流石にそれは、小娘が可哀想だ」
「君も存外酷いよね」
四年の時を屋敷で過ごした頃、彼らは家主に言われ、独り立ちすることとなった。とは言っても、家主が所有しているマンションの、隣同士の部屋に住むことになるので、同居していた時と半分くらいは変わらないだろうと言うのが友人の考えであった。彼はとにかく炊事が出来ないので、結局は半同居となってしまうのだろう。善は急げ、なのかは分からないが、翌日には部屋を与えると言われて急遽荷物を纏めている。
「追い出されたってことかな」
「さあ。家主の考えは分かりませんね。私には」
「違うと思うよ」
手伝いに来たらしい少女は、成長して大人らしさを纏っていた。大学生となり、その振る舞いや言葉に違和感を持つことも無い。
「二人の仕事を見て、新たに出す店の店員にした。御祖父様の言葉通り。あの人は、使えないと思ったら初日にでも切り捨てる人だからね。むしろ認められたと思っていい」
「へえ……そんな様子には見えなかったけどな」
「不器用なのよ。そうね……妹はその辺り、似てると思うわ」
その目は愛に溢れている。彼はそれをチラリと見ると、少ない荷物を纏めた。家具は備え付けだったし、衣類は必要最低限、ここへ来た時に持ってきたものが殆どである。荷造りにそう時間はかからなかった。翌朝にはここを出て行く予定である。
四年の時を経ても、彼には分からないことがある。彼女がどうして、自分達を雇うよう祖父に言ったのか、だ。家には帰りたくないとまで言っていた少女が、頭を下げてまでお願いしたのには、一体どんな理由があるのか。彼には勿論、友人にだって分からない。しかし、共にいる時間は少し心地良かったのも事実だった。
開店した店は客を呼び、オープン日以外でも程々の売り上げを得ることが出来た。まだまだ安定しているとは言い難いが、知り合いが手伝いに来てくれることもあり、どうにか店を潰さずにやっている。
ある日のことだった。少女が箱を持って来店してきたのだ。まだ店を開ける時間ではないが、出入り口のドアベルが鳴る。
「アオイがケーキを作ったのよ」
嬉しそうに言うとそれをカウンターに置いて、皿とフォークを用意する為作業場の中に入っていく。
「あの子、お母さんの子で私の妹とは思えない程に料理上手だし、いつか一流のシェフにでもなれるんじゃないかと思っていたけれど、きっとパティシエにだってなれるわ」
親馬鹿ならぬ姉馬鹿。少女とは言い難い年齢になった彼女は、既に切り分けられているそれを一つずつ皿の上に乗せていく。
「うちも作れる人がいるならケーキ出すんだけどねえ……ペタは軽食くらいしか作れないし、僕は論外だし」
「私はマイナスだし」
「自覚があるだけマシさ」
綺麗な三角の端をフォークで一口サイズに切り分け、口に運ぶ。ふわふわのスポンジ生地に滑らかなクリームが舌の上で溶けていき、少し控えめの甘さが口の中に広がる。
「うん。美味しい」
「そうでしょう。あ、ペタも食べてみて。きっと気に入ると思うわ」
仕込みをしていた友人は言われた通りそれを口に運ぶ。何か言うことも無く、無言のまま全て食べ終えると再び作業場に入っていった。それを眺めていた彼女は少し目を細める。
「…………これくらいしか出来ないからね」
「ん? 何か言った?」
「いいえ。残りも良かったら食べて。うちにはまだいっぱいあるのよ。それじゃあ、私は学校に行くから」
「ああ。今日も頑張ってね。行ってらっしゃい」
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