02
好きな人が去ってから数年、退屈な日々を過ごし嫌いな学校へ通い、それも漸く終わると思えば、次の学校へ通わなければならない。ああ、まるで堂々巡り。今度は何も無ければいいけれど、きっとそれも私の淡い希望で終わるのだ。叶えられないまま。どうせ私は「おかしな子」なのだもの。
最近のストレス発散方法は、お菓子を作ること。ケーキの生地を混ぜたり、生クリームをホイップしたり、無心でやっていると少しはスッキリする。ケーキの生地やカスタードクリームなんかは魂が出来ないか真剣になるし、デコレーションも慎重にやらねばならない。生憎、私はことデザインと言うものにおいて才能は無かったようだけど、料理には自信があった。
生前母は料理下手で、それはもう毎日炭か生焼けしか生み出さなかった。野菜を洗ってそのまま出した方がよっぽど食べられるレベルだった。年の離れた姉もそれを色濃く受け継いだのか、姉もまた壊滅的な料理スキルを誇っていた。いや、これは誇るべきことではないかな。そのせいか、私は幼いながらに台所に立つことが多く、料理は幾分かマシに出来た父に調理器具の使い方を教わりながら料理を担当した。初めは本当に簡単なものから。今では色々レパートリーも増えただろう。まだ両親が生きていたら、今も私が作り続けていたに違いない。それはそれで、楽しい日々なのだろうけれど。
完成したケーキは結構な大きさで、しかも結構な量を作ってしまった。流石に一人で食べきれない。大きなトレーに乗せてカットして、自分の分と姉の分を取ったら後はメイド達にでも食べてもらおう。気に入らなければ捨てるだろうし、そうでなければ無駄にはならないのだから。
大学生も後半に突入しつつある姉は本日、家にいるようで部屋の扉をノックする。すると少し間があってから声が聞こえて扉を開いた。声をかければすぐに振り返る。この姉は、どうにも妹離れできていない。嬉しそうな表情でワントーン高い声を出すのだ。
「ケーキ作ったの」
「アオイのケーキ! 嬉しいわ! そうだ、時間も丁度いいしおやつの時間にしましょう」
私が作るお菓子の感想は決まって「おいしい」だ。しかし、姉は経営学とやらを学んでいるらしく、結構細かく感想を言ってくれる。クリームはもう少し柔らかい方がいいだとか、生地が硬めだとか。でも、味はおいしいと言うのだ。
「ケーキ、いくつか貰ってもいい?」
「どうして?」
時々、こうして余っているお菓子を持っていくことがある。どこにとか、誰にとかは言わない。何度聞いても「友人に」と答えるだけだ。その友人が誰なのか、私は知らない。
「別にいいけど」
どうせ大層なものでもないし。私がそう答えると、姉は満足そうに笑う。そしてまたおいしいと言いながら食べるのだ。
お菓子作りはストレス発散にとてもいい。後片付けも、無心になれる。何も考えずにいられる。おいしいものは好きだし、それを自分で作れるのなら、それ程いいことも無いだろう。
普通に料理をするのも好き。今では振る舞うことも無いので、家庭科の予習復習と言って厨房を使わせてもらうくらいだ。出来たものは勿論、半分以上はメイド達が食べる。お菓子もそうだが、私が作るものを祖父が口にしているところを見たことがない。別に構わなかった。食べたところで、どうせ感想の一つも言わないのだろう。
料理以外でも、楽器に触れるのが好き。最初はピアノを習い、次にバイオリン、フルート、それらと同時に声楽を習っていったが、私は同じ弦を鳴らすものならベースやギターの方が好きだった。あの音が結構スカッとするから。
ただ、習ってはいたものの、絵はどうにも上達しない。その辺りは姉の方がだいぶ上手だった。姉は料理も出来ない、音感も無いわりに、絵や説明力に長けていて、私が不愛想で人付き合いが苦手なのに対し、姉は学校生活では苦労していないようだった。昔から、私はこの姉が好きで、尊敬している。料理も楽器も出来ないけれど。
この屋敷で生活して結構長くなると思う。長くなれば、メイド達の態度の変化にも気付くようになってきて、私と姉とでは多少の違いが見られた。
見た目的な話をすれば、姉は母親に似ていた。私は父親に似ている。この家は父方の家だ。これだけで理由は十分だった。メイドには若い人もいればメイド長と呼ばれ、自分では使用人を名乗る壮年の女性もいる。長くここで勤めていると、やはり自分が世話した坊ちゃんに愛着が湧くのだろう。そして、その坊ちゃんを掻っ攫った女を憎むこともあるのだろう。私は父に似ていて、姉は母に似ている。ただそれだけだった。
身の回りのお世話をされるのは、まるで自分一人では生きていけなくされているようで、昔から好きじゃない。自分で出来ることは自分でしたかったし、お風呂にまで着いて来られるなんてたまったものじゃない。全部仕事としてやっているくせに、本心なんて見せないくせに。
ああ、気持ちが悪い。
彼を見つけたのは、本当に偶然だった。
小学校を卒業し、中学に上がるまでの春休み。ずっと使っていたヘアゴムが伸びて切れてしまったので買いに出た。メイドが買ってくると申し出たが、買い物くらい一人でしたかったし、この辺の地理を覚えるのに必要だと適当に理由を述べて逃げてきた。学校へも送り迎えをしていると言うのに、買い物にも車で、とかになったら流石に困る。
百円ショップで黒いヘアゴムが三つほど束になっているものを手に取って、ついでにキッチン用品を見ている時に彼を見つけた。適当な調理器具を眺めていて、いくつか籠に入っているのが見える。あまりにも突然、視界に入ったから一瞬心臓が止まったかと思った。恐らく、呼吸は確実に止まっていたと思う。次の瞬間、はっ、と呼吸したのが自分でも分かった。
どくどくと心臓が逸る。緊張に似た感覚が全身に走る。三年程会っていなかっただろうか。もう随分と経つように思うけれど、その後ろ姿も、横顔も、あの時と変わらない。私の、好きな人。
気付けば彼の姿は無くなっていた。私は急いで会計を済ませて店を出る。キョロキョロと辺りを見渡してみても、それらしき姿は見えない。見失ってしまった。思わず泣きそうになって、口元を手で覆う。見失ったことにじゃない。再び会えたことに、嬉しくて泣きそうになった。嬉しくてうれしくて、心臓が張り裂けそうな程に高鳴って、じわじわと心を、体を温かくしていく。
その日はテンションが上がっていた。部屋にいる時はどうしようもない気持ちで溢れていた。彼への思いが止まらなくて、同時に悲しくなっていく。
見かけた程度で何をはしゃいでいるのか。話したわけでもあるまい。相手は私に気付かなかったのだし、きっともう、私のことなど忘れている。
そう思うと心は落ち着いた。祖父の前に出るには、浮かれた状態ではいけない。あの人は私や姉の感情など興味が無いのだから。
けれど、好機は来るもので。散歩と称して朝に家を出た私は、駅周辺をいくらか歩いて、一つのカフェが視界に入った。シンプルな印象を抱く雰囲気のある店で、まだ子供である私には関係のない店だろう。ちらりと中を覗いて通り過ぎようかと思って近付けば、そこにいたのは彼だった。クローズの看板をオープンに変えて、店の中へ戻っていく。すぐさま駆け寄って店内を見れば、そこには短髪――彼と共にやってきたもう一人の男と姉がいた。
どうしてこんなところに……いや、それより何で姉がいるの。私は何も知らなかった。でも姉はここに彼らがいることを知っていたの? 姉が持つ箱は、昨日私が作ったケーキが入っている箱だ。それを渡している。私だけが、何も知らなかったの……?
カラン、と音が鳴る。知らないうちにドアを押していたらしく、ドアベルが鳴ってしまったらしい。気付いた時には遅く、店内の三人がこちらを見ていた。
「アオイ? どうしてここに……」
そんなの、こっちが聞きたい。どうしてここに彼らがいるのか、そして姉がいるのか。謎は深まるばかりだ。
「……つき」
「え?」
「……うそつき」
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