少女は絶望していた。
大好きな両親が亡くなったから。親戚は自分勝手な人ばかりだから。祖父の目が怖かったから。それでいて冷たい目をしていたから。誰一人として、自分を自分として見ていないから。自分を、祖父の孫としか見ていないから。
少女は幼くして両親を亡くした。まだ齢五になろうかと言う頃だっただろう。祖父を除けば、肉親は年の離れた姉一人だけ。とは言っても、十代半ばの年齢である彼女では、まだ学校にも通っていない少女を養うことは出来なかった。彼女らを引き取ったのは、厳しくて顔付きがどこか怖い、目の鋭い祖父の家だった。
メイドや使用人等が現代の世で実在することにも勿論驚いたのだが、何よりそれらを養えるだけのお金や、それらを寝泊りさせることのできる屋敷の広大さに彼女らは驚いた。いきなり、今までとは違う世界を見せられ、自分達とは違う金銭感覚の人と生活をしなければならないと言うことは、少女とその姉にとって凄まじい環境の変化となる。しかし、彼女らには行く当ても無く、成人していない自分らだけで生きていく術も無かった。
少女がこの屋敷に来て一番に思ったのは、少し寂しい屋敷だと言うこと。広い屋敷はメイドや使用人がいようとも、人の温かさを感じられず、冷たいように感じたのだ。食事をする時のテーブルは、やけに長くて会話一つしない。日常的な会話も殆ど無く、朝の挨拶と夜寝るときの挨拶以外には言葉を交わさない日もある。今日は何があったかなんて、聞かれることもない。メイドは数人、彼女らを構ってはいたが、彼女らにとってはそれも単なる仕事なのだとしか思えなかった。
少女の祖父は何らかのグループを率いている。この国でも有数の、或いはトップに君臨するかもしれないそのグループの名を、知らぬ国民などいないだろう。そう言っても過言ではない程に、巨大なグループだった。名前だけでも聞いたことのある人が殆どのはずだ。だから当然のように、孫である彼女らは祖父の跡継ぎとして一族に広まった。ある者からは祝福され、ある者からは嫌悪され、ある者からは嫉妬される。ある者は取り入ろうと下卑た真似をして、ある者は唯々無関心。そこにいるのは皆、自分のことしか考えていない人達ばかりだった。
少女は絶望していた。両親が亡くなったことに。こんなところに来てしまったことに。自分が無力であることに。たった一人の姉も救えないことに。
少女に転機が訪れたのは、少女の姉が二人の男を屋敷に連れ帰った日のことである。姉が中学の最終学年だっただろう。明らかに成人男性二人を連れて帰ってきて、暫く泊めてあげたいと言ったのだ。彼らは大学に通っておらず、仕事もしていなかった。日雇いの仕事で生活していたのだと言う。そんな時、格安のアパートが取り壊され、とうとう宿無しとなってしまったところ、少女の姉がやってきた。
そう祖父に説明する姉と、その後ろに控える二人を少女は部屋の出入り口である扉の隙間からこっそり覗いていた。別段興味は無かったが、共に暮らすとなればどんな人間か見ておきたいと言うのが心情だろう。だが、厳しい祖父がホームレス二人を泊めてやるなど、許可することもないだろうと言うのが本音だった。考えるそぶりこそするが、答えなんて決まっているのだろう。少女はそう思っていた。
扉の隙間からは後ろ姿しか見えなかった。二人とも髪は長かったが、一方は白髪のような銀色の髪で、もう一方は薄い灰色のような、薄くくすんだ金色のような髪。一瞬、年老いた男性なのかと思うも、真っ直ぐ立っている姿を見るに成人してそこそこの男性なのだろう。
やがて祖父は考えるそぶりをやめて、許可を出す。それに少女は驚いた。すると許可を得ると姉が二人に部屋を案内すると言うのだ。二人は扉の方へ振り返る。その一瞬、隙間から覗く少女の目と男の目が合った。少女は思わず扉から退く。扉に近付く足音が聞こえ、素早くその場から走り去った。
少女は初めての感覚に戸惑っていた。女でもないのにだらしなく髪を伸ばしている男なんて、きっとろくでもないのだろうと思っていたのだ。それが、どうだろう。目が合った男は、どこか憂えた、しかしきちんとした顔付きをしていて、髪の長さなどどうでもいいと思えてきたのだ。
心臓が騒ぐ。小さな体では長時間走っていられないせいか、息も上がって肩で呼吸していた。そして一つ、呟く。
「……きれい」
姉が連れてきた男二人は、この屋敷に住む代わりにお手伝いとして働くことになった。料理掃除洗濯は勿論のこと、庭の手入れや車の洗浄。雑用と言う雑用を、メイドでは足りない部分を補う形で働かされていた。
少女は、それまであまり花に関心は無かったが、庭師の知識など無いせいで拙く歪な手入れをする庭によく出入りするようになった。ある程度慣れてくると、一応は咲いてくれるので、綺麗な花々を見ることが出来る。その時間が少女は好きだった。
たまに、長髪の男が手入れしているのを見かけることがある。銀髪の方はすぐに髪を切ってしまい、今では短髪となっていたので、少女の中では長髪と短髪で区別されていた。長髪の男は初めて見た時と同じ髪の長さでそれを一つに結っている。そんな彼が関係無さそうな表情をして、花々に水をやっている姿を見かけるのだ。
少女は二人の男と然程仲は良くない。会えば挨拶をして、短髪の方とは幾何かの会話をする程度だ。ただ、その程度には彼らに慣れていた。屋敷の者達はまだ彼らを訝しんでいるようで、冷たい態度を取る者も多かったが、同じく他所から来た彼女ら姉妹は、彼らに親近感のようなものを感じていたのだろう。だが、彼女らを大事にするメイド達はそれが許せなかった。メイド達の中に彼らに近寄る者はいなかったし、まだ学校にさえ通っていない少女も、誰かしらに近寄るなと言われて引き離されることが殆どだった。
その歳にしては聡明だった少女は、メイド等がいない場所を通り、庭に出て花々を見ることも容易い。その日は、庭を手入れしている者はいなかったが、先客がいた。普段は手入れをする側の男だった。
少女の心臓は騒ぐ。ちらり、とこちらを見ると軽く会釈をして、話しかけはしない。だが、こちらへ来るなとも、あっちへ行けとも言わない。少女は幾分か離れて彼の隣に立った。風が吹く。花々は揺れ、花弁を散らす。色取り取りのそこはあまりにもカラフルで、少女は目を細めた。
どれくらいの時が経っただろう。少女にしてみれば本当に長い間、彼の隣にいたのだが、近くの時計を見てみれば一時間も経っていない。会話も無く、何かするでもなく。ただそこでずっと庭を眺めているだけなのに、少女にとってそれ程心が休まり、気が楽になり、同時に心地良い胸の高鳴りを感じたことも無かった。彼とずっと共にいたいと思った。彼のことが知りたいと思った。
それから少女は、暇を見つけては庭に出て彼を探した。いる時もあればいない時もある。暫く待ってみるとやってくる時もあれば、いくら待っても来ない時もある。本当に日によって様々で、だからこそ少女は生きている気がした。
共に庭を眺める時は、徐々に距離を近付けてみて、彼が気付くかドキドキすることもあった。嫌なことがあって落ち込んでいた時もあった。あまりにも嫌で消えてしまいたくなる時もあった。けれど彼は何も言わなかい。気付いていたのだろうが、それでも少女に何か言うことはなかった。いつしか、他愛ない会話をするようになった。本当に何でもない、ただの世間話のようなもの。天気がいいだとか、最近は手入れの仕方が良くなっているみたいだとか、その程度のものだった。
絶望しかしていなかった少女が、もう生きる意味なんてないのかもしれないと思っていた少女は、生きている感覚。目を開ければそこには風景や人物が映って、息を吸えば酸素を取り込み、匂いを感じる。口を開けば話が出来る。彼の為にそれが出来るなら、それで生きていけるなら、それでいいのだろう。少女は彼のことが好きになっていた。
やがて少女は年を重ね、小学校へと上がっていた。そこは何の変哲もない、お面白みのない施設だ。既に“自宅”で勉強していた少女にとって、今更何を学ぶことがあるのか。何年経ってもそこは退屈で、それでいて気持ちの悪い場所だった。
――ああ、早く彼のいるところへ帰りたい
少女の頭の中は彼のことだけでいっぱいだった。それ以外を考えたくは無かった。いけないことだと分かっている。けれど、自分のなかでだけなら、許されるはずだと甘い考えでそれを許した。
学校が終われば真っ直ぐに帰宅する。そこには大好きな彼がいるから。しかし、現実はそう甘くない。
「ねえ、ペタは?」
どこを探しても彼の姿は無かった。彼と共にやってきたはずの短髪の男もいない。この時、彼らの名をきちんと覚えていた少女は、その名を口にすることも多かったからか、メイド達はすぐさまそれに答えた。
「あの者達でしたら、本日この家を出て行きましたよ」
何でもないように、特別なことでもないように。
目の前が真っ白になった。何を言われているのか分からなかった。少女にとっての生きる意味が、もうこの家にいないと言うのだ。おかしな話だった。勝手に来ておいて、勝手に出て行くなど。見当違いなことを考えてしまう程に、それは少女の中で大きな衝撃となり、そして絶望となる。
その日、部屋に引きこもった少女を心配して声をかけたのは姉だった。「どうしたの?」「嫌なことでもあったの?」「まさか虐めなんて……」と扉の前で言う姉がおかしかった。どうして姉が普通にしているのかも理解出来なかった。扉を開けてみれば、姉は少し嬉しそうに微笑む。そして少女は言った。
「何であの人を連れてきたの」
「あの人?」
「あの人と会わなければ、またこんな気持ちにならずに済んだのに」
少女は涙を堪える。この屋敷に来てから、感情を押し殺した少女は久方振りに見せる感情だった。
「あのね、聞いて」
「なんで、どうして」
「彼らはね、別に嫌になって出て行ったわけじゃないのよ」
「どうしてっ……」
意味深に笑う姉を見ても少女は分からない。少女はこの屋敷で、彼らと会話することなど殆ど無かった。名前は知っていたし、言葉を交わしたことは勿論ある。しかし、慣れ慣れしく何かを聞ける程親しいかと問われれば、首を横に振るだろう。彼らの名前以外は一切知らないのだ。どうしてここに来たのかも、どうして姉と出会ったのかも。ただ、今は、姉に抱きしめられ背中をさすられていた。肉親の安心感には抗えない。ただただ、姉の優しい声音と優しい心音に心地良さを感じて、その温もりに身を委ねた。
2016.07.15
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