01
この世に生を受けて十八年近く経つ。そんな私を構成するのは、私が愛した彼だった。
私が生きる意味、と言うと少し大袈裟かもしれない。しかし過言ではないとも言える。私が喜ぶ時も、悲しむ時も、いつだってそこに彼が関係していて、私の世界を構成し、私自身を構成する。
だから私が学生で無くなるこの時を……対等になれるだろう一歩を踏み出すこの時を、私はずっと待っていたのだ。
高校最後の登校。高校最後の教室。高校最後の行事。校庭の隅にある桜の木。既に涙を浮かべる女子生徒。少しはしゃぐ男子生徒。朝の時点ではまだそんな生徒達を統率する教師。始まってもいない行事の話をする人達。集まりかけている保護者。準備を行う在校生。時折しんと静まり返る空間。
卒業とは、この世を生きる人間の大半が経験する行事である。学校に入学すれば嫌でも体験するだろう。長い話を聞き、卒業証書を貰い、校歌や卒業の歌を歌い、送辞を貰い、答辞を捧げ、終わる頃には泣いている生徒も半分近くになる。そうでなくても、体育館を出れば途端に蛇口を捻ったように泣き出すのだ。人間とは、つくづく大変な生き物だと思う。そう思う私も人間なのだけど。
どうにも、この卒業式と言う行事が好きではない。めでたいと言いつつも、別れに涙する矛盾。どこにしまっておくのか知らないが、カメラを構えてパシャパシャと撮影する人々。写真を撮らなければいけないと言う風潮。あと少しすれば、この空間はいつもの休日の学校となるのに、今日のこの時間は笑みと涙で溢れている。居心地が悪い。
感動屋でも無ければ、この学校に大した思い出もない私は、さっさと帰りたくて仕方ない。今日と言う日を待ちわびたのだ。早く彼の元へ行って、私の思いを伝えたい。決して少女漫画のようなものではないだろう。私の、一方的で自分勝手な感情だ。でも、学校での物事よりずっと大事な思い出がそこにあって、そこに彼がいるから。私はいつだってそこに帰りたくなる。
別に友人がいなかったわけじゃない。中学まではそんな人いなかったけれど、高校になると何故か一人二人三人……寄ってきては私に笑いかけた。私のことを知っても尚、友人と言うのだから彼女らは少しおかしいのかもしれない。良い意味で。学校自体にはそれ程思い出も無いが、彼女らと出会えたことは感謝しているし、こうして無事に卒業できたことは喜ばしいことだと思う。
式が終わり、卒業生は退場する。後輩ですら涙を流し、卒業生を見送る者もいれば、保護者にもハンカチで目元を押さえる者もいる。感動、涙、祝い――それらで埋め尽くされ、溢れ出んばかりの空間。早くこの空間から出て行きたい。
教室で卒業アルバムを貰い、先生の話を聞き、そして漸く解散。大半の生徒は校内、校庭、昇降口、下駄箱と体育館を繋ぐ渡り廊下等、様々な場所で写真を撮ったりアルバムに何かを書き込んだり、連絡先を交換したりしている。
「アオイさん、少し話でも……!」
「何か?」
「あ、えっと……そ、卒業おめでとうございます……!」
「どうも」
下駄箱で靴を履き替え、家に帰れば捨てる予定の上履きを袋に入れながら答える。相手は男子生徒。胸の花を見れば、彼も卒業生だと言うのが分かる。少しモジモジしているが、トイレにでも行きたいのだろうか。行けばいいのに。
「えっと、あのっ……!」
「ごめんなさい」
「えっ!?」
「私、この後用事があるの」
何の用だか知らないが、私にとってこの後の用事以上に大切なことはない。早く、早くと心が急く。走り出してしまいたい衝動にさえ駆られる。自分でも不可解だ。ふられるのだと分かっているのに。
「アオイ、もう行くのー?」
学校で人気者である彼女は色んな人と写真を撮っていたらしい。いつも楽しそうで明るい子だから無理もない。その割に、本人は人を信用しないところがあるのだから、人間なんて見た目で判断する生き物なのだろう。ああ勿論、そうではない人もいるけれど。
「こんなところで無駄な時間を過ごすつもりはないわ」
「アオイらしいね! 後でわたし達もそっち行くからねー!」
あまり大きな声で話してほしくは無いのだが、彼女にそう言っても無駄なのはこの三年間で理解した。同じく人気者のあの子と、真面目で優しいあの子と、あの子の付き添いである彼が共に来るのだろう。それまでに話をつけるつもりだ。
途中、何人かに引き止められたがどうにか校門を出ることに成功した。ちらりと見えた車に、祖父と姉が乗り込むのを横目に徒歩である私は近道を利用して駅まで向かう。電車通学はこういう時もどかしい。電車が来るのを待たなくてはならないし、人が多いと改札を通ることもままならない。幸い、今日はすんなり通ることが出来たけど。電車が来るのにあと二、三分。
少し速足に来たからか息が乱れている。落ち着けるように呼吸を繰り返して、自分の鼓動を確かに感じる。思い出すのは彼との日々で、距離が縮まることは無かった。彼はいつも私を子供扱いして、自分が大人であることを主張するから。
でも、きっとどう足掻いたって、私は彼のことが好き。十年以上も好きでいたのだから、今後も変わることなど無いのだろう。
電車に乗り込めばあっという間だ。二駅程の距離だから、自転車で行こうと思えば行けるのだけど。生憎私は自分の自転車を持っていない。毎日車を出すと言ってきかない使用人達を振り切って電車通学を貫いていた。
目的の駅で電車を降りて、改札を抜ける。街中からは卒業シーズンの文字は消え、入学シーズンやら花見シーズンやらを謳っている。淡い桃色の花を模った様々な商品は女子の受けがいいのだろう。かく言う私も嫌いではない。
「プリムラの花はいかがですか?」
花屋の前を通ると、店員のそんな声が聞こえた。可愛らしい女性がにこやかな笑みをこちらに向ける。手には女性の言うプリムラの花があった。見慣れた気がするその花を差し出され、一瞬心臓が跳ねる。
「ご卒業おめでとうございます」
「え……」
「あれ? 違いましたか? 胸に花をつけているからてっきり……」
「いや、合ってますよ」
驚いた。急ぎつつも走らず早歩きで歩いていた私を呼び止めたのも、見逃してしまいそうな胸の花に気が付いたのも。
「花言葉は“青春の美しさ”……あなたにとっての学生生活が良いものであったと、少しでも思えたなら」
「……ありがとうございます。でも私、まだこれから用事があって……あの人にこの花は、似合わないから」
昔からそうだったから。
目的地であるカフェに辿り着けば、カレンダーでは休日だと言うのにクローズの看板を下げる扉が目に入った。理由は至極簡単だ。私の卒業式があるから。臨時休業としたその店は、何人かが前を通り張り紙を見ては店の前から去っていく。残念そうなそぶりをする人々はこの店を目的として家を出たのだろう。そう言えば、この辺りではウェイターがイケメンだとか店主がイケメンだとか言われていたような……最近女性客が多いのはそのせいだろうか。
まあ、今はそんなこと気にしたところで意味は無い。気にしないことにして扉を開ければ、真っ先に目に入る彼の後ろ姿。小型のテレビで適当な番組を流し、タブレットで何かを見ながらノートにペンを走らせている。ドアベルの音に気付いたらしく振り返れば、彼の目が私を捉えた。
途端に心臓が跳ねる。逸る気持ちを抑えながら近付けば、どうしたんだと聞こうとした彼の口を開きかけて、すぐに閉じた。それは私が彼の眼前に卒業証書を突き出したからなのだが。
「なんだ、急に」
「卒業したの」
ばくばくと心臓が忙しない。絞り出すように出た声は、自分でも分かる程情けなくて、弱々しい。
気持ちを伝えると決めても、この日だと決めても、私は自信なんて無かった。何せ、大人である彼にまだまだ子供である私を受け入れてもらえることなど、奇跡に等しいことなのだから。
「そうか」
ただそうとだけ、彼は言う。それにがっかりする気持ちを抱きつつも、話を続けなければいけないのだ。思えば、この人はいつもそうだ。少し意地悪なところがある。あいつと一緒にいるせいか、はたまた元からの性格なのか。私には未だにこの人のことを理解しきれていないけれど。
「それで? おめでとうとでも言ってほしいのか?」
首を横に振るのはすんなり出来た。そうだ。私が聞きたいのはそんな言葉ではない。祝いの言葉は不要だ。卒業など些末なことでしかないのだから。今ここで私がするべきはたった一つで、彼に求めるのもたった一つだ。
一度深く呼吸する。心臓はあまり落ち着かないが、けれど思ったより煩くない。
「ペタ、好きよ」
目を見て話す。言ってしまった後は簡単だったように思うのは、その瞬間が過ぎてしまったからだろう。しかし言った後は言う前よりも沢山の不安が押し寄せる。自分の気持ちがちゃんと届いているか、その気持ちは受け取ってもらえるのか。否、受け取ってもらえはしないのだけど。淡い期待を抱いてしまうのも人間だ。でも、それは下心でも、私は目を背けてはいけない。
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