10周年記念 | ナノ
08

「先生ー。マツバせんせー!」

そろそろ教育実習も終わる頃、生徒にとっては馴染んできた先生である僕が離れることを寂しく思う人もいるようで、ここ数日は質問が多い。なぜか、女子生徒が多いのは疑問だけど。

「先生って、彼女いるの?」

初日にも聞かれた質問だ。初日と同じく、僕は首を横に振って否定の言葉を述べる。いつも通り。

「えー、うそだあ! だって、あたし見たもん! 先生、あそこの公園で女の人と一緒にいたでしょ?」

どきっとした。まさか見られているなんて思わなかったから。この学校とあの公園では結構な距離があるし、近くに同じ制服の子を見かけたことはなかったから、油断していたのかもしれない。

「なんていうか、地味な人だったよね。でも、佇まいが綺麗なの。いいところのお嬢様って感じ。彼女?」

「彼女じゃないよ…………今はね」

僕の返答は予想外だったのか、少しきょとんとした表情をした女子生徒はすぐにニコニコ笑うと、へえ、ふうん、と納得したかのように言った。



お嬢様――そう、僕は初めの頃、彼女の態度や立ち居振る舞いからどこかのいいところのお嬢様なのではないか、と思っていた。当時高校生だった僕にとっては、扱いにくい人の上位五位以内に入るだろう人種だ。しかし、話を聞けば聞く程彼女の家は平凡で、同級生の話で聞いたことのあるような、ありふれた家庭だと思っていた。

あの日、彼女と彼女の親戚らしき女性が対面し、言葉を交わした後の変わりよう……あれは、彼女が女性に対して酷いトラウマを持っているから。家に送り届けた後、そのことを話して彼女の姉に聞いてみれば、かいつまんで説明をしてくれた。

説明を聞いて、僕はこれ程怒りに打ち震えたことはないと思った。無自覚に握った拳が震えて、聞いているだけで叫びたくなるような、人権を、一個人を無視した話だった。

彼女は、どれ程苦しんだのだろう。どれ程頑張ったのだろう。どれ程、自分を押し殺したんだろう。呪いのように纏わりつく言葉で雁字搦めになり、子供らしさも自分らしさも飲み込んで、“祖母のような理想の女性”を演じなければいけない重圧は、小学生が背負うには重すぎる。

どうして今まで気が付かなかったのか。僕には全く、彼女が見えていなかった。ただ、大人びていて、優しい子なのだと。そう思っていたんだ。それが、実際はどうだろう。

今更嘆いていても仕方ない。彼女はもう、そうなってしまった。僕も、気が付かなかった。ただそれだけだ。でも、心臓が――その奥が、締め付けるように痛いのは、きっと間違いじゃない。何度も謝る彼女を見て、震える彼女を見て、僕は気付いてしまったんだ。彼女に抱くこの感情が、何なのかを――。


* * *


学校を、休んでしまった。両親にも、姉にも、幼馴染みにさえ、休んだ方がいいと言われてしまった。別にどこも悪くはないのに。布団の中で横になっているだけでは、時間が無駄に過ぎてしまう。家のことでもやろうかと思ったら、今日に限って両親が全て熟している。朝食は恐らく姉が作ったのだろうけれど、私がすることは何一つとして無かった。

私はきっと、生きている意味が無いんだろう。祖母のようになるだけが、私の生きる意味だったんだ。だから、祖母のようになれなかったから、両親も姉も、私に何もさせてくれない。私が出来ることなんて何もないから。祖母のようになれないから。ただただ、情けないから。

こうして寝転がり、窓のそとを眺めるしか出来ない私は、生きている価値も無いんだ。

「……ばかだなあ」

こんなことなら、伯母さんの話をもっとよく聞いておくべきだったのかな。涙さえ、浮かばないや。

あれ、インターホンが鳴ってる? 誰もいない時間なのに、おかしいな。荷物は届かないはずだし、お客さんだって来るはずがない。おかしい。


* * *


――ユキカは今日、学校を休ませた。家で寝ているはず

そんな連絡を貰った僕は、お見舞いがてら彼女の家にお邪魔することにした。許可は得ている。あの後、彼女の姉にも連絡先を聞いた。お互いに交換しておいた方が後々何かあった時に役立つだろうと思った結果だ。幼馴染み君とは交換していないが、場合によっては吝かではない。

で、だ。お見舞いの品であるモンブランプリンを持って彼女の家にやってきたのだけど、先程からインターホンを鳴らしても彼女の携帯に電話してみても出ない。寝ているのかもしれないと思ったけれど、それなら音で起きるはずだ。何より、この時間帯に起きていないはずがない。それに、休んでしまった彼女が無闇矢鱈に外出するはずもない。では、どうして彼女は応答しないのか。

玄関のドアノブに手をかける。引いてみれば、戸は開いて中から声が聞こえる。やはり、彼女は家にいる。そう思って声をかけようとした瞬間、大きな声が聞こえた。


「なんでッ!? どうしてよ!! あんたもあたしを馬鹿にするの!?」

「ちが……ごめんなさいっ、ごめんなさい!」

「皆そうだった! あたしは何も間違っていないのに、父さんも愚弟も、皆あたしを否定する! でも、母さんはいつだってあたしのことを愛してくれたのにッ!!」

いけないと思いつつ、上がり込んで声のする方へ進めば、リビングらしき場所で仁王立ちする女性と、ソファーの裏側の背に追い詰められて、座り込みながらも泣いている彼女がいた。

「何度言ったら分かるの!! ごめんなさいじゃないでしょ!! 母さんはそんな風に言わないッ!!」

「何をしてるんだ!!」

僕が間に入り込めば、未だ怒り冷めやらぬ女性は僕をキッと睨む。流石の僕も、ヒステリックを起こした年上女性の扱いは苦手だな。

「ユキカちゃん、大丈夫?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「ユキカちゃん!!」

「ちがうの……! こんなんじゃっ……そんなつもりじゃ……!」

「じゃあ、どういうつもりだったって言うの!? 言いなさいよ! ほらっ!」

彼女に掴みかかろうとする女性の手を振り払い、僕は彼女を引き寄せる。時々嗚咽を我慢するように、けれど堪えきれずに洩らしながら、彼女は泣いていた。

「ユキカちゃん、ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、何が違うのか教えて?」

耳元でそっと言ってやる。少し落ち着いたらしく、まだ嗚咽を我慢しながらも彼女はぽつぽつと話し始めた。

「わ、たしは、ダメな子だから……おばあちゃん、のように、ならないと……」

「うん」

「お父さんと、お母さん……おばさんと喧嘩、しちゃうから……」

「うん」

「だれも、きずつけたく、ない、から……」

誰も……そう、誰も。彼女は、自分をこうした目の前の女性でさえ、傷つけたくなかった。自分が祖母のようであれば、それで何も起こらないなら、彼女はそれになろうと、そう決めてしまったんだ。

手に力がこもる。どうしてだろう。こんな状況だと言うのに、僕の中に溢れるのは彼女への気持ちばかりで、本当に自分勝手な奴だと思う。今は僕の気持ちなんてどうでもいいことだろうに。でも、心が叫びたくなる程に、今のこの気持ちを伝えたくて仕方ないんだ。

――君のことが好きなんだ


2016.10.05

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