07
――あの子は母さんに似ている。だからあの子もきっと優秀なんだわ!
そう言った伯母からのプレッシャーは、少女の心を蝕んでは、やがて彼女に偽りの笑顔を覚えさせた。
少女が物心着く頃には、親戚の集まりで父方の伯母がやけに馴れ馴れしく世話を焼いてくれることが多かった。少女の双子の姉には冷たい言葉すら吐き捨てると言うのに、少女にだけ甘い言葉を囁く伯母のことが苦手になるのも時間はかからず。少女が懐いていた祖母が亡くなって間もない頃に、その伯母は少女に対して我が子のように茶道や着付けを学びなさいと言い始めた。
――返事は「はい」よ。微笑みは絶やさずに
――はい
――そんな子供っぽい笑顔はやめなさい。はしたないわ
――ごめんなさい
――“ごめんなさい”ではなく、“すみません”と“申し訳ありません”よ
――申し訳ありません
――ええ、いいわ。ねえ、いいお茶の先生がいるの。そこで茶道を学びなさい。そうすればあなたは、母さんのようになれるわ
少女の両親もそれには黙っていられなかったのだろう。伯母の立ち入りを禁止し、少女は漸く解放された――かのように思われた。
伯母の言葉は少女の心にゆっくりと侵食していく。少女は祖母が大好きだったから、亡くなってしまった祖母を悼む人が沢山いたから、この世には祖母がいなくてはいけないのだ。自分ではなく、祖母が必要なのだ。優しく、柔らかい笑みを浮かべるあの人がいれば、両親が伯母に怒ることも、伯母が双子の姉を罵ることも無くなるのだ。
――ああ、わたしはおばあちゃんになればいいんだ
気弱な少女の中で、それだけが確かな強い意志だった。
閉じていた瞼を上げる。温かい布団の中は気持ちがよく、まだ眠っていたい気持ちが強い。視線だけでは時計を確認できないが、まだ目覚ましの音は聞いていない。朝の微睡みの心地良さに負けそうになりながらも、ゆっくりと体を起こした。
まだ覚醒しきっていない頭は何も考えられないが、毎日の習慣で自然と目は時計に向けられた。時刻は朝六時よりも少し前。数秒の間、その状態でいれば徐々に脳が働き出す。
ベッドから出て、のそのそとした足取りで自身の部屋の戸を開ければ、まだ薄暗い廊下の静けさに一度立ち止まる。が、すぐにまた動き始めた。少女が部屋から出ると真っ先に向かうのは、祖母の仏壇がある和室だ。毎朝、ここで線香をあげて手を合わせる。そして少女は呟くのだ。
「今日も、お祖母ちゃんみたいにいられますように」
仏間から出ればキッチンへ向かう。髪を軽く結い上げ、エプロンを身に着けて冷蔵庫の中身を確認。適当な材料を取り出して、脳内で何を作るか考えながら炊飯器の中や食パンの残量などの確認をする。今日は朝に炊けるように設定していた炊飯器から湯気が出ていることから、炊き立てのご飯が朝食に出せるようだった。再び冷蔵庫から取り出したのは昨夜の残りの味噌汁。鍋に移し、火にかける。
ボウルに卵を三つ程割り、解していく。砂糖をメインの味付けに、塩を少々、醤油を二滴程垂らして混ぜ合わせる。二つ目のコンロに四角いフライパンを置いて火を点けて油をひいた。手をかざして丁度いい熱を感じたら卵を少量入れてフライパンいっぱいに広げる。ジュウジュウと卵が焼けている音と共に、ふんわりと甘い匂いが漂う。程よく焼けたところで折り畳んでいき、更に卵を流し込んで先程巻いた卵に巻くようにする。その繰り返し。途中味噌汁の火を止めつつ、全ての卵を使い切れば卵焼きの出来上がり。白い湯気がたつそれをお皿に移してフライパンをシンクに置く。水で流して洗えば次の準備。
余っていたウインナーを斜めに半分に切り、更にその切り口に縦の切り込みを入れる。人数分切り終われば別のフライパンに油をひいて火を点ける。熱した後、ウインナーを入れれば再びパチパチと音が鳴る。切り込みを入れたところが反り返り、簡易的なタコに見える形になれば後は軽く焼き色を付けて出来上がり。こちらも皿に移しておく。
昨夜の残りの煮物を器に盛ってから電子レンジで温めて、ご飯が炊ける音を耳にしながら納豆のパックを開けて器に移し、付属のタレやからしを入れて混ぜていく。胡麻と刻んである小葱を入れてそのままテーブルに出したところで片割れである姉が起きてきた。
「おはよう、ユキカ」
「おはよう」
電子レンジの音を聞いて、煮物を取り出してからそちらもテーブルに置く。姉は少女にまだ時間はかかるかと問うと、首を横に振るので同じくキッチンに入り、茶碗にご飯を盛り始めた。彼女はその間に卵焼きを人数分に切り分け、レタスとプチトマト、ウインナーと共に皿に盛り付け、運んでいく。余った分は両親の分だ。味噌汁もよそえば、本日の朝食の完成である。
「海苔も食べる?」
「んー、今日はいいかな」
「そっか」
共に席について、手を合わせて「いただきます」と声を揃えて言うと食べ始めた。
少女の家は父と母、双子の片割れである姉と少女の四人家族だ。両親共働きで、朝はゆっくりだが夜は遅い。なので、決まって朝食は少女と、少女の双子の姉と交代で作っている。どちらかがご飯を作れば、どちらかが洗濯をするのだ。作るものは至って普通の、一般家庭の料理ばかり。時々レシピを見て凝ったものを作ることもあるが、朝は前日の夕飯の残り物が多かった。
少女や片割れの姉は家事を嫌だと思ったことはない。そもそも、忙しくも自分達へ沢山の愛情を注いでくれる両親に対して、感謝を抱かないわけがなかった。尊敬すらしている域にある。祖母のことも、祖母よりも前に亡くなった祖父のことも、双子の二人は好きだったし、尊敬していた。
そんな双子に両親こそ感謝の気持ちでいっぱいで、朝に顔を合わせることは少ないが、時間が許す限り彼女らに愛情を注いだ。お互いに少し寂しく思うこともあるが、決して家庭環境が悪いわけではない。良好と言えるだろう。
だからこそ、たった一人の伯母の言動で乱されたくはなかった。誰もがそう思っていたし、伯母が狙う少女を守るべきだと思っていた。自分らがいない間の訪問を禁止し、親戚の集まりでは出来るだけ近付けないようにした。それでも話をしなくてはならないこともあったが、以前のように祖母の話を始める度に片割れの姉や両親によって遮り、引き離すようにしていた。伯母以外の親戚も協力をしてくれることもある。それ程に伯母の言動がおかしいものなのだと、家族は皆思っていた。ただ一人を除いては。
少女は生まれながらに引っ込み思案で、内気な性格をしていた。それがネガティブであると気付いたのは小学校に上がって三年以上してからである。もしかしたら、伯母のせいでそうなってしまったのかもしれない。伯母に覚えさせられた笑みを浮かべるようになったのも、そのネガティブが顕著になり始めてきた頃だった。
小学生にしては大人びている、と周りの大人は口々に言う。しっかり者で常に笑みを湛えている――大人の言うことはきちんと聞いて、柔らかい声音で返事をする。学校の先生はすぐに少女を気に入った。だからこそ、少女が少し小学生らしい間違いをすれば、溜息を吐いては「ガッカリだよ」と口にした。蝕まれた彼女の心がポロポロと崩れていくような、体から魂が抜けてしまうかのような、そんな感覚を少女は覚えて、それからは今まで以上に気を付けた。
――笑みを絶やしてはいけない。子供っぽく笑ってはいけない
――背筋は伸ばし、姿勢をよくすること
――返事は「はい」
――謝罪は「申し訳ありません」と「すみません」
――声音は柔らかく、優しく
――所作の一つ一つを丁寧に
――常に祖母のように振る舞うこと
その日は、まだ暑さの残る九月の末。金木犀の香りに誘われるように公園へ足を運んだ彼女は、ベンチに腰掛けている一人の高校生と出会う。高校生が付けているストラップは、彼女が好きなアニメに出てくるモンスターのキャラクターだ。ゲームも持っている。行ける年には映画も見に行く。彼女は、それが唯一、自分が自分でいられるものであった。
気付けば高校生の隣に座っている。飲み物を両手でゴクゴク飲んで、躊躇いながら、それでも彼女は高校生に話しかけていた。
「……お兄さん、こんにちは」
2016.09.24
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