01
僕の人生は酷くつまらないものだと幼いながらに感じていて、祖母の決めたレールの上をただただ歩いていくだけのものなのだと思っていた。
高校生の頃、自分よりも自由に生活する友人達が羨ましくなって、やりたいことの一つでも見つければ決められた進路とは別の道へ行けるのかもしれない、と淡い期待を抱いたこともある。しかし祖母の意見は変わらなかった。ただ僕に、教師になれと言った。経験を積む為だ。大変な職業だが、いつか僕の為になるのだと、祖母は口癖のように言っていた。
そんな高校二年の秋、まだ暑さも残る九月末。金木犀の香りが漂い始めた頃に僕は彼女と出会った。
平日の午後三時過ぎ。学校を終えたらしい小学生が何人か遊びまわっている公園で、学校帰りの僕は自販機の飲み物を購入した。空いているベンチに座る。見上げれば憎らしい程に青い空が広がっていて、意味も無く眺めていた。十分するかしないかくらいだろうか。隣に何かが座る気配を感じて視線を向ける。そこには女の子が座っていて、両手で飲み物を持ってんくんくと飲んでいた。
見回してみれば空いているベンチは他にもある。それなのになぜ、この子が僕の隣に座ったのか理解し難い。子供は苦手だ。年上の相手はよくするが、年下の相手はあまりしないからか、どう話せばいいのか分からなかった。ただ隣に座っているだけの子供に話しかける必要なんてないのだろうけれど、僕はこの子がどうして隣に座ってきたのか気になる。見れば、小学校高学年くらいか、中学生くらいだろうか。ますます話しかけ辛い。女の子はぷはー、と飲み物から口を離した。
僕は何か話しかけようとして口を開き、そして閉じる。僕と女の子の間には沈黙が流れ、周りの賑やかな音をBGMにしていた。
「お兄さん、こんにちは」
沈黙を破ったのは女の子だった。何てことはない、至って普通の挨拶だ。それに僕もこんにちはと返す。至極簡単なこと。
「えっと、他にもベンチは空いているのに、どうして僕の隣に?」
「実は……」
少しモジモジして、頬を赤らめた女の子はキュッと飲み物を握ってこちらを勢いよく見た。何だか不思議な目に、僕は目を逸らせなくて。ただ瞬きしか出来なかった。
「お兄さんのそのストラップ、あれですよね?」
あれ――女の子が示すそれが何なのかすぐに分かった。僕が鞄に着けているゲームに登場するモンスターのストラップ。僕はこれが大層気に入っていて、幼い頃に買ってもらったのを未だ着けている。後に自分で買った別のものは携帯電話にもつけているくらいだ。
「私が見たことないデザインだったので、どこで買ったのか気になって……ごめんなさい」
小学生かと思われた女の子は、とても丁寧な話し方と低姿勢な態度だった。突然人の隣に座ってくるくらいだから、もう少し無作法なのかと思っていたけれど、話せば何てことはない。普通の女の子である。
女の子はこのゲームが大好きで、僕みたいな高校生がストラップを着ける程好きなことに嬉しくなったらしい。いつもはこんなことしないそうなのだが、思い切って話しかけてみたんだそうだ。一番好きなモンスターを聞いたら、強いて言うなら、と答えてくれた。でも、全部好きなのだと笑って言うから、僕も自然と笑みを浮かべてしまう。話していれば時間はあっという間に過ぎていった。
「あ、私、ユキカと言います」
帰り際に名乗ってくれたので、僕も名乗る。
「僕はマツバ」
また会うかも分からない女の子だけど、彼女の――ユキカちゃんの笑顔を見ていたら鬱屈とした気分が晴れていったような気がした。見上げた空は橙に染まりつつある。もう少ししたら夜の色が見えてくるだろう。
その翌日に、僕は再び公園へ行った。勿論、彼女はいない。暫く待ってみたが、彼女は現れなかった。流石に昨日の今日でまた会うことはないだろうと思っていたけれど、会えなかったことを残念に思う。
夕暮れ、そろそろ家に帰ろうとベンチから腰を上げて出入り口まで歩いて行った時、「あ!」と声が聞こえた。見れば、あの子が買い物袋を手に提げて歩いてきていた。
「こんにちは! あ、もうこんばんは、ですかね……?」
ふわりと笑った彼女は僕の前で立ち止まる。
「買い物に行っていたの?」
「はい。うちは両親共働きなので、夕飯とか日用品の買い物にはよく行くんです。あっちで姉と待ち合わせているんですよ」
「へえ。偉いね」
両親が共働き。姉がいると言うこと。買い物は子供達でしていると言うこと。昨日は聞かなかった事実に驚きつつ、世間話のようなものを繰り広げる。どこのスーパーが安いだとか、どこそこのお肉は質がいいだとか、とても小学生からは聞くことのないことばかりだが、料理含めて家事の類は全て家の人に任せている僕にとっては新鮮な気持ちになった。同時に、自分が一般家庭の常識を知らないことに改めて気付かされる。
「あ、そろそろ行かないと」
彼女がそう言って、少しの間立ち話をしていたことに気付く。重い荷物を持って立ちっぱなしにさせていたのは申し訳ない。
「持とうか? 重いだろう?」
「え、でも申し訳ないです! 家、すぐ近くなので。でも、ありがとうございます。お気持ちは凄く嬉しいです!」
本当に小学生らしくない子だと思った。丁寧な言葉遣い、けれどその端々にまだ慣れていないことが窺える。別れの挨拶をしてから彼女を見送る。少し振り返った彼女が軽く頭を下げる仕草は、やはり子供らしくない。僕が年上で、年上は敬うものだと理解しているのが分かった。女子は成長が早いと言うが、それにしたってあの話し方は少し違和感を覚える程だ。
あの子の背中が一層小さくなるまで見続けていれば、前から同じくらいの背をした女の子が駆け寄ってきていた。あの子に話しかけて、少しすると並んで歩いていく。ああ、あの子が姉なのか、と納得すると同時に、あまりにも身長の差が無いことが引っかかった。
まあ、そんなこと、今度会った時に聞けばいいだろう。もう会えないと思っていたのに、今日会えたんだ。次もある。
そして僕らは、約束もしていないのに毎日のように公園で会っては話をした。本当に他愛ない話ばかりだ。あのモンスターの話、好きな食べ物の話、今学校で流行っていること、もう少ししたら文化祭があると言うこと。時々会話が途切れることがある。でも、それすら苦では無かった。彼女と話していると不思議と心が穏やかになって、その笑顔で次の日も頑張れるような気がした。
大体、二週間近く経っただろうか。本日は雨。公園で待っていても来ることはないだろう。金木犀の香りは雨のにおいに掻き消え、その花も散っていく。道路に落ちた花に少し物悲しさを感じながら歩いていれば、前から歩いてくる小学生に気付いた。
「あなたがマツバさん、ですか?」
聞き覚えのない声。小学生にしては冷めた――否、少し刺々しい声音に驚く。傘を少し上げてこちらを見るのは女の子。見覚えのあるような子だが、記憶が曖昧だ。しっかり覚えていないのなら、きっとどこかですれ違ったのだろう。でも、相手は僕の名前を知っていた。
「そうだけど……君は?」
「ユキカの姉です。妹がお世話になりました」
その言葉に目を見開いたのが自分でも分かった。確かにこの子はあの子と同じ髪の色をしていて、背丈も似ている。けれど、その表情も目の色も顔つきも似ていない……正反対のように見えた。刺々しい言葉も相俟って、姉妹とは思えない。
「最近、あの子が頻繁に公園へ行くので、何かあるのか聞いてみたらあなたと話が出来るから、と言っていました」
あ、これはまずい。そう思って脳内に言い訳を巡らせる。けれど、何を言ったところで警戒心むき出しの目の前の女の子には通用しないだろう。そもそも、言い訳を考えている時点で僕にもやましい心があったのかもしれない。そういった嗜好を持っているわけではないと断言できるが、あの子の優しさに惹かれたのは事実だ。
「相手は高校生。初めは注意していたんですけど、それでも公園に通っているので、あなたに注意しに来ました」
注意――その言葉の意味が何なのか、嫌と言う程分かる。決してそういうことをしようだとか、邪な気持ちで近付いたわけではないし、きっかけを思い返せばあの子から話しかけられたのだと主張出来なくもない。が、そんなこと、高校生である僕がしたら大人気ないと嗤われるだろう。
「何を思って小学生の女の子と公園で話をしているのか分かりませんけど、あまりユキカに近付かないで貰えますか」
問うたのではない。金輪際近付くな、と言われたのだ。返答は必要ない。だから目の前の女の子は踵を返して去っていく。「それでは失礼します」の言葉を忘れずに。あの子と言い、この子と言い、本当に礼儀正しいと言うか、何と言うか。否、今のは礼儀と言うよりかは、もう二度と会わない為の挨拶だろうか。
雨は強さを増していく。これなら僕が学校へ着く頃には、ズボンの裾が濡れているかもしれない。既に学校指定の靴は雨で濡れていた。まだ靴下は無事だが、この後はどうだろうか。せめて、あの子が――否、あの子達が、雨に濡れないよう祈っておこう。
2016.07.15
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