09
夏休みも半ば。彼女はアルバイトが終わり、自転車で帰宅途中。大量と言うわけでもないものの、一列、二列と並ぶ向日葵畑を視界に入れつつ強い日差しの中自転車を漕ぐ。
結いあげた髪がひらりひらりと揺れる。頭の汗がたら……と流れてきては頬を伝い落ちる。纏めきれなかった髪の毛が肌に張り付いてくすぐったい。蝉の声に煩わしさを覚えていれば、目の前に現れた人物を捉えて目を細める。そして彼女は、自転車のブレーキを握った。
「こんにちは、関吉くん」
「スイレンさん。バイト終わりかい?」
「ええ」
夏休み中のアルバイト終わりは関吉と会うことが増えた。彼女はそれが偶然でないことに気付いているが、何か言うつもりは無い。今のところ、特にこれと言って害はないのだ。既に自宅は知られているし、徒歩の関吉と自転車の彼女では彼女の方に分がある。
自転車の籠に入れている鞄からタオルを取り出し、更に持っていた水筒を開けて水で湿らせる。それで汗をかいた首元に持ってきて汗を拭った。彼女は一応帽子を被っており、日焼け止めも塗っているが、元々紫外線対策については疎い。アームカバーもせず、カーディガンを着ることも無く、半袖のTシャツにジーパン姿のラフな格好だ。
「用が無いならもういいかしら? 家に帰って洗濯物を取り込まないと」
今日は朝から昼のシフトだった。早く起きて洗濯をして干す。妹達の昼食は素麺を茹でて貰うことになっており、父親の弁当だけを作って家を出た。最近では妹達も徐々に料理を覚えてきており、彼女は火の扱いに不安を覚えながらも任せることにしている。なので、家に帰ってまずすることは洗濯物を取り込み、畳んでしまうこと。その後昼食を済ませてから夕飯のメニューを考えて買い物リストを作るのだ。
「いや、今日は話をしようと思ってきたんだ」
「最近いつもいるじゃない。話なんていつでも出来るでしょう?」
「……前の、君が倒れた時のことを考えたら言い出せなかった」
関吉の言いたいことは分かっていた。彼女が倒れた日のこと、関吉自身が勢いで言っていたこと。自分に好意を抱いていることは先日の件で嫌でも気付かされたが、気付いたところでどうしようも無い。
「正直に言うよ。俺はね――」
関吉から続く言葉。告白と呼ばれるそれは、彼女の耳に入ったと思えば通り過ぎるようにすっと抜けていく。そうして関吉の顔を見れば、これでいいだろうと言わんばかりの表情を浮かべて彼女の返事を待っていた。その顔は、いい返事が来るだろうと信じて疑わない。
「悪いけど、私は今家族を養って生きていくことで精いっぱいだ。職場ではまだ下っ端の父の給料だけでは三つ子の妹達を養ってはいけない。高校生の私のバイト代を合わせたところで大した額にならない。今後、妹達の高校受験や大学受験のことを考えれば、余裕なんて全くもってないの」
「……は?」
関吉は意味が分からなかった。優等生で、常に笑みを湛えて、誰にでも優しい彼女。頭が良く、運動神経も良い。どうやら球技は苦手らしいが、それが欠点にならない程に美しい彼女こそ、自分に相応しいと思っていた。関吉は自分の成績が良く、身体能力もそこそこ、顔も悪くはないだろうと思っている。しかし、寄ってくる女が媚びを売るような女ばかりで飽き飽きしていた。そこで出会った彼女に一目惚れも同然で恋をしたのは、運命に似た何かなのだと。こんな完璧に近い自分に好意を寄せられ、彼女が断るはずがないと。信じていた。
「理想だ何だ言うけど、理想だけじゃお付き合いは成り立たないでしょう?」
「でも! 俺は君が好きだって……!」
「だから何?」
「だから……」
「私はあんたのこと、好きじゃない。それが答えで、それが全てだ。私は好きでもない人と付き合う暇はない」
もう用は無い、と言わんばかりに彼女は別れの挨拶をしてから自転車を漕ぎだした。濡れたタオルは首に引っ掛けて、暑いばかりで風など吹かない道を愛車で走っていく。
「……ま、待ってくれ!!」
精いっぱいの声で関吉が呼び止める。それに彼女は再び自転車を停めて振り返った。
「君は、確かに本当は俺の理想とかけ離れているのかもしれない。でも、俺が君を好きだと言う気持ちは受け取ってほしい」
一度唇を噛み締めてから言葉を続ける。
「君の一番は何だ?」
質問の意図は何となく察していた。関吉の中で選択肢として浮かぶ中に彼の名前があるのも、彼女は気付いている。けれど、彼女は関吉の思い通りの答えを出すことはない。
「自分が生きていくことよ」
そう言うと今度こそ走り出した。もう呼び止められることもない。呼び止められても、家に着くまで止まることは無いだろう。落ち着かない鼓動を落ち着かせる為に、彼女は自転車を漕いだ。
一番は何かと問われて、彼女は真っ先に家のことを思い浮べた。お金のことも、妹達のことも、全てひっくるめて家の問題だ。そして次に思い浮べたのは、彼の顔だった。今までそんなこと無かったと言うのに、思い出したらそれで埋まっていく。その感覚が異常に怖くて、それでいて嬉しくも思ったのだ。
少しのタイムロスで時刻は正午から一時間も過ぎていた。鍵を開けて中に入り、ただいまと言えば居間からひょっこり顔を出す妹達に迎えられる。
「姉さま、先程破天荒が来ましたよ」
「へえ……えっ?」
驚いた。それは自分がいない間に彼が訪ねてきたこと、そして妹達が彼と話をしたこと、彼のことを気安く呼んでいること、家に着くまで彼のことを考えていたこと。その全てに驚いていた。
「何でもお祭りのお誘いだそうで。後でまた連絡すると言っていました。あの、姉さま……あの男、何なんです?」
「あー……えっと……まあ、友人みたいなものよ」
「随分と姉さまに好意を向けていましたけど、まさか姉さま、お付き合いなさっているのでは……」
「まさか! 私は誰かと付き合う程暇は無いって。お祭りも行かないし」
彼女の答えに妹達の表情は曇る。自分達がいることで彼女の、この家の負担になっていることは分かっていた。でも、だからと言ってこの家を出ると言う発想にもならない。否、正確には以前、そんな発想から家出をしたこともあった。しかし、既にこの家に受け入れられ、家族として愛されていた妹達を必死に探したのは紛れもなく彼女だ。だから妹達はこの家を出ることは無い。
「あの、姉さま」
「ん?」
彼女は妹達が気を利かせて取り込んだ洗濯物を畳んでいく。
「お祭り、行ってください」
「何で!?」
「あの破天荒とかいう男の為ではありません。いつも私達は姉さまに迷惑をかけ、苦労をかけさせています。だから、たまには遊んでほしいのです。自由にしてほしいのです」
「人混みではありますが、お祭りの楽しい空気ならばきっと元気も出ることでしょう」
「御友人が他にいないのならあの破天荒と言う男を利用すればよいのです」
だから、姉さま――と妹に懇願するように言われ、断れる姉ではない。幸い、以前の助っ人アルバイトで得た収入もある。携帯電話を入れっぱなしにしている鞄を見つめ、数秒。ふう、と息をついて彼女は困ったように、けれど少し嬉しそうに微笑んだ。
「夕飯はどうするの?」
「大丈夫です! 家庭科でも包丁の使い方や火の扱いは褒められました。私達だけでも料理は出来ます」
「味付けは姉さまより劣ってしまうかもしれません。でも、いつまでも姉さまに甘えていてはいけないのです」
「何れは姉さまを養える程の力をつけるつもりです。その為にも、今から料理をしなくては!」
意気込みを見せる妹達に彼女は鞄を引き寄せて中から携帯電話を取り出した。「そうね」と一言だけ呟くように言って、電話帳から彼の名前を探す。通話ボタンを押せば数回コールが鳴って、彼は出た。その声は少し驚いているようで、彼女は自然と笑みが零れる。お祭りの件を聞いたこと、丁度暇なので行きたいと話をして、彼との約束を取り付ける。通話を切って妹達を見れば、少し寂しそうな笑みを浮かべていた。
「今日は破天荒と一緒に行くけど、次は四人で行きましょうね」
彼女がそう言うと、途端に顔が明るくなり、満面の笑みを浮かべて頷いた。
畳んだ自身の洗濯物を持って自室に入る。戸を閉めて、ずるずると背中に体重をかけながら座り込んだ、
「……お祭り……お祭りね」
近所のお祭りは行ったことがある。幼い頃の話だが、その記憶は鮮明だ。しかし、ここ数年はお祭りに行っていない上に、久しぶりに行くお祭りに彼が一緒にいるのだ。先日の停電以来、どうにも意識してしまっている彼女は、元より自分からこまめに連絡をする方ではなかったが、尚更彼と連絡を取る機会を逃していた。今回は幸いと言うべきか、或いは不幸と言うべきか、電話をする機会に恵まれ、そして約束を取り付けるまでに至る。心の準備もしないままに取り付けたものだから、今頃になって彼女の心臓は思い出したかのように仕事を始めた。
彼女にとって、男性に抱きしめられるのは初めてのことである。まだ道場に通う子が他にもいた頃は、男の子とも取っ組み合いをしていたものだが、それとは違う。あんな風に強く抱きしめられ、熱を感じ、人の鼓動が伝わる程の密着などしたことが無かった。だから意識してしまうのだ、と何度も彼女は自分に言い聞かせる。そうでなければ何一つ手に着かなかったから。しかし、それだけならば、浮かれるはずがなかった。お祭りに誘われたことも、連絡をして約束を取り付けたことも、彼に会う口実が出来たことに喜びを感じるはずなど、無かったのに。
「な、なに着たらいいんだろう……」
普段なら着る物など気にしない彼女が、無意識に服装を気にし始める。洗濯物をしまってから部屋を飛び出し、父親の部屋に無断で入ると奥のタンスを開けた。そこには煌びやかなものや華やかなもの、落ち着いた雰囲気を持つもの等、いくつかの着物や浴衣がしまわれている。生前、彼女の母親が所持していたものだ。開けたまま凝視して、そして閉じる。
「やっぱり自分の服で何か……」
そう言って再び自室へと戻っていった。
その繰り返しをしているうちに昼食を取ることも忘れ、夕飯の買い物も忘れ、陽は暮れ始めて開けた窓から風が入り込む。生温い風だが、昼間の太陽に比べれば涼しい方だろう。急いで冷蔵庫にあるもので夕食を作った。
そして彼女はお祭り当日まで、服装に悩むことになるのである。
2016.10.12
:
back :